2018年12月11日火曜日

ゴジラ : king of the monsters トレーラー2解禁!!!!!

言葉はいらない
最後まで見てくれ!!!!!



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人を洗脳する方法について

目次つきの記事はこちらにあります



ある芸人がいるとします。
彼らのコントライブは定評があるが、
バラエティ番組のトークはてんで駄目で、
いまいちテレビの露出がなく、売れないままでした。
そんな彼らに、ある賢者が100%成り上がれるための知恵をさずけました。

「お前たちはぜったいに売れる。
 トークをするにも、オチまでちゃんと考えてから話しだすこと。
 そうすれば、きっとうまくいくはずだ」

しかし洗脳の才能がある賢者はこう言います。

お前たちのコントのこだわりはすごい。
 コントの構成をトークにもあてはめてみたらいいんじゃないだろうか。
 トークをするにも、オチまでちゃんと考えてから話しだすこと。
 そうすれば、きっとうまくいくはずだ」






こんにちは。


洗脳といえば、
みなさんはおもにカルト宗教団体や霊感商法、
あるいはネズミ講にまつわるものとして知る場合が多いのではないでしょうか。


おかしな他人の言いなりにされてしまうもの、「洗脳」。



このメカニズムを心理学的に説明するならば、「きまったやり方のない催眠」です。

 
この状態にもっていくための方法をこれから説明していきますが、
あなたがやすやすと他人を洗脳ができるようになるとは考えないでください。
洗脳に適した才能の持ち主なら、マニュアルなどなくとも他人をその状態に持っていくことが可能ですし、大事なのは「洗脳状態を維持する」ことであって、そこまで解説するつもりはありません。
せいぜいこの記事がヒントになったとしても、効果的に人をコントロールするのはせいぜい一度や二度が限界だと思います。

それでははじめていきます。







1.催眠について理解する

洗脳とは、きまったやり方のない催眠だと説明しました。

そもそも、催眠とはどういうものなのでしょうか。
まずは「催眠状態」というものについてかんたんに説明します。


これは、
「被催眠者が、催眠者によって、特定の感情や行動のスイッチをうめこまれ、
 それを催眠者ににぎられてしまっている状態」
のことをさします。


これが成功したとき、たとえば催眠者が「幼少期のことを話せ」といえば、
催眠状態の被催眠者はそれを話し始め、質問にも自動で答えていくことになります。
それがたとえ「あまりに屈辱的でとても他人に話せない」ようなことだったとしても。



催眠者がスイッチをうめこむためには、
被催眠者の思考を一時的に麻痺させる必要があります。
それを麻痺させる手段が、俗に『催眠術』と呼ばれる技法です。

古典的な"催眠術師"といえば、糸から提げた五円玉を左右に揺らしながら、相手に語りかけるといったものでした。
それは『EMDR』と呼ばれる手法で、クライアントに規則的な眼球運動を行わせることによって、思考を麻痺させる手段として確立されているものです。

ただし、これをやらせれば、それで催眠状態になってくれるわけではありません。




催眠にかけるためには、被催眠者の『承認』が必要です。

承認とは、「催眠にかけられたい」という心構えのことです。
「どうぞかけてください」という積極的な姿勢が相手にあるかどうか、です。


そのモチベーションは「催眠療法によって心身を癒したい」といったものから、「催眠音声で性的に満足したい」といったものまでさまざまです。
 あるいは、好奇心が承認となってかかってくれることもありますね。




しかし、それだけでは足りません。
「こんな人に催眠がかけられるわけがない」
「こんなうさんくさい人に催眠をかけられたくない」
といった不信が被催眠者の側にあると催眠状態の妨げになります。


「この人に催眠をかけてほしい(かけられてもいい)」という『信頼』が絶対的に必要とされるのです。


つまり、被催眠者が、すべて納得ずみで「みずから催眠者にスイッチをあけわたす」という心持ちにならないかぎり、催眠は成功しないのです。


この『承認』と『信頼』の二つの手がかりを頼りとして、
被催眠者の脳の命令系統に、特定の行動や感情の強制作動スイッチを設置すること。
これが「催眠」です。








しかし、『洗脳』はちがいます。
催眠術を使いませんから、転じて、強制的なスイッチを埋め込むものではない。

これは非常にまずいことです。

「催眠」がスイッチ式ということは、スイッチさえとりのぞけば元に戻るということなんです。
それを使わない洗脳の場合、根本的な人格の改造がおこなわれるということです。




2.洗脳(人格改造)のやり方


ある芸人がいるとします。
彼らのコントライブは定評があるが、
バラエティ番組のトークはてんで駄目で、
いまいちテレビの露出がなく、売れないままでした。
そんな彼らに、ある賢者が100%成り上がれるための知恵をさずけました。

「お前たちはぜったいに売れる。
 そうだ、なんだったら私のやり方も教えてやろう。
 トークをするにも、オチまでちゃんと考えてから話しだすこと。
 そうすれば、きっとうまくいくはずだ」

しかし洗脳の才能がある賢者はこう言います。

お前たちのコントのこだわりはすごい。
 コントの構成をトークにもあてはめてみたらいいんじゃないだろうか。
 トークをするにも、オチまでちゃんと考えてから話しだすこと。
 そうすれば、きっとうまくいくはずだ」



「何を言うかではなく、伝え方がすべて」という話ではありません。


相手の思考にたやすく感情移入できる人間、
相手が自分自身にもっているイメージにたやすくよりそえる人間、
自分の思考を後ろに置き、相手が真剣に考えているものにまずアクセスする人間、


それは、相手の意識の回路を見抜くことができる人間であるということなんです。





のちに芸人が大成功したとき、
その助言をあたえたのが「洗脳の賢者」だった場合、
芸人にとって賢者はだれよりもの「理解者」へと変わります。

賢者はもともとから芸人の思考経路にアジャストできる人間ですから、
ちょっとした助言も、チクリとした苦言も、スルリと溶かしこむことができます。
芸人が自分の力で何を成功しようが、それを賢者に報告したとき、賢者はただうなずくだけでいい
芸人の中にはすでに「わかってくれている」という実感があるからです。
この「思考を共有しているという実感」が、人格改造の手がかりとなっていきます。




賢者がこのまま「良き相談相手」として導いてくれたら良い。
しかし、ここで賢者がマウントをとったとき、状況が一変します。



「わたしにはあなたの魂のかたちがわかるからね」
「大丈夫、あなたのことはぜんぶわかってるから。面倒見てあげるから」
「ぜんぶ手相に書かれてることだからね」
「神の御言葉です」


赤の他人が相手であれば、鼻で笑われるような思い上がりが、そのとき別の意味をもって響いてきます。
「だからこの人のいっていることは的を射ているのか」という状態になります。


「思考を共有している」ということは、「感情移入している」ということです。
賢者ばかりが芸人のことを考えているのではなく、芸人側からも賢者に感情移入をしているということです。
賢者の中に自分を見ているということは、賢者が語る自分のことを真実だと感じるということです。

鏡にむかって「お前はおれだ」といい続けいるようなものです。自分がなにものかわからなくなるのではなく、自分が鏡のなかのものだと誤認しはじめるのです。

そんな積み重ねによってすこしずつ感情移入が強化されはじめたころ、
賢者がなにかのきっかけでこう言います。

「お前、それじゃ駄目だ。もっとこうしないと!」

これが人格改造の始まりです。








うまくいったら、
「ほら、言ったとおりじゃないか」といえばいい。

うまくいかなかったら、
「話してみろ。いや、だからそこがちがうんだ」といえばいい。


被洗脳者は、賢者のなかにいる自分を「信頼」しています。
それが次々とつくりかえられていくことを「承認」せざるをえない。
それは、被洗脳者のパスワードをよみとり、人格をハッキングできるほどの相手だったから。
催眠とはまったく逆の順序です。

承認と信頼があれば、きまった催眠のやり方に乗っかってもらうことができますが、洗脳はそうではない。
だから、洗脳には、才能が必須なんです。後天的な信頼と承認をひきずりだすためのパスワードを読み取るほどの才能が。

被洗脳者はたまったものではありません。
賢者に自分を人質にとられ、それをなんとか返してもらうたびに
否定という刃によって、手の指が、足の指が、いつかは腕さえも切り落とされていく。

そうして自己否定をやらされ続けた人間は、自信を失います。
正しい自分は賢者の中にいて、今いる自分はエラーが起きているという感覚をずっと持ち続けることになる。

人間は日々成功と失敗をくりかえしますが、その単なる失敗をエラーと感じ、単なる成功が賢者の中の自分に近づくことができたという思いへと変わっていくんです。



ここまで地盤を固めたら、もう賢者はただ口添えするだけでいい。
「次はこうすればうまくいく」






これが洗脳のやり方です。







3.最後に

洗脳された人間は適応障害を引き起こされた状態です。後天的な発達障害と呼ばれているものです。それを人為的に引き起こし、自分を介護者に位置づけるのが洗脳です。

かつてハイチには伝統的な処刑法がありました。
罪人を薬物によって仮死状態にしたのち、蘇生させることで前頭葉の一部を死滅させることで感情的判断ができない廃人と化させるというものです。そうなった人間は言われるがまま命令に従う生ける屍の奴隷と化すのです。
これはゾンビと呼ばれています。
脳の一機能を麻痺させることで人間が他者をコントロールできる証左としては、もっとも有名な例ではないかと思います。
ロボトミー手術はこれの近代版でした。


これを対話のみで実行するような人間がいます。


大多数の人間は真似できないと思いますが、できる人は、あるいはこの記事を見ただけでさえある程度の深度までは踏み込むことも可能になると思います。
マウントをたたみ込むきっかけさえ自然と見える、そういう人間がいるんです。

彼らは、洗脳するつもりがなくても、ただ相手が言いなりになることが心地良くて、
気がついたら人間関係を崩壊させることさえあります。



 「自分の意識を後ろに置く」という説明がもしつかめたのであれば、その素養を認めないわけにはいきません。
相手のためを思って、あえて口をつつしむというレベルではなく、これを自然状態でナチュラルにこなせる人間こそが才能としてはもっとも強力です。

 あなたはどっちでしょうね。

 





それでもなお、"上沼恵美子を含めて"M-1の審査員には絶対的に正しい基準がある!【M-1インスタライブ事件】


私、バナナマンが好きなんですよ。
だからもちろんラーメンズも好きなわけです。
はい、この論法がわかった人はコント好きですね?

そんなコント職人として私が敬愛するバナナマン。
彼らが主演していたトーク番組「バナナ炎」には、
テーマを決めてフリートークをするコーナーがあります。
そこでこんなテーマがあがりました。

世間は気付いていないが「バナナマンのココを評価して欲しい!」

そこでさまざまなアピールポイントを自分たちであげていくバナナマン。
「おしゃれな人達から注目されている」とか「バナナマンはどんな番組でも使いやすい」だとか、おおくの自画自賛が飛び出してきました(笑)
コントにこだわっている、というポイントはもう私も何度も何度もうなずかざるをえませんでしたが。

そんなとき、いままで意識していなかったけれど、
ハッとさせられるようなコメントが設楽さんの口からとびだしました。

「バナナマンには品がある」
「"う○こ" とか "ちん○ん"とかいってても
 どこかしら品がある。聞く人を嫌な気分にさせない」

これがこの記事のテーマであり、M-1の審査の基準であり、
ネット民の大多数にはけっして持ち得ることのできない基準点です。


なにせもはやこれはハッキリと審査員の口から出ています。
最たる例は、この志らくさんの「和牛」への寸評です。

「ゾンビ」に「殺す」というワードが出てきて、非常に最初は嫌な感じがしたんだけども、全体にものすごく品があるんですよね。品があるから「ゾンビ」と言おうが「殺す」と言おうが、どんなことをしても楽しく聞けるっていう。それはやっぱりお二方が持っている才能でしょうね。

これなんですよ。








今回のトピックス


てことで今回のトピックスはこれ。
いやね、スーマラが評価されるわけがないんですよ。

M-1を見た方はわかるでしょうが、
これに【漫才芸人】の看板を持たせたいですか?という話です。

第一線で活躍するクリエイターというものには品が必要です。
以前、創作弱者はエロとパロに走るしかないという言い方をしましたが、それもこれもなにもかも品性という芯がないからこそ手段を選べないということです。
それは漫才芸人というパフォーマーでも同じ事です。

M-1という「お笑い」の第一線を決める場において、
品のない人間は必要とされていません。

"いちおう"本戦まで駒をすすめたスーパーマラドーナですが、
松本さんに
なんでラストイヤーにそんな暗いネタすんねん
といわれるような結果でした。
まさにこれ、「ジャンプ」という第一線では活躍できないやつが「good!アフタヌーン」あたりに逃げ込むしかなかったようなものです。

M-1は漫画家でいえば"ジャンプ作家"を決める新人賞なんです。
 第一線でやれる光をもった人間を捜しているわけです。

個人的ブチ抜きド優勝の栄冠を掲げてあげたい和牛ですが、彼らは「M-1の領域を超えている」などともいわれていますが、まさにそのとおり。ジャンプに適しているかどうかではなく、辺境でもなお"個人の力"で立身した『進撃の巨人』的なコンビなんです。
バナナマンを知っている人はいても、あのこだわりぬかれた演劇型コントの魅力を知らない人がたくさんいて、それが世間的な評価を支えているわけではないように、それが看板として世間に掲げて通用するかどうかはまた別の才能なわけです。



さて、そんなスーパーマラドーナや、舞台にすら立てなかったとろサーモンですが。
まあインスタライブで吠えるというのがいかにも弱者らしい振る舞いでしたね。

第一線の舞台に立てない三流はつねにネットにはけ口をもとめます。

三流にすらなれない素人が表現を許される場がネットなのです。

たとえば同人作家やコスプレイヤーのように、エロやパロをいくら出しても、同じレベルの人間たちはそれを評価します。
しかし本物は評価しません。それがメッキだとわかっているし、なによりも、品を捨てれば低いレベルで注目してもらえることは知っているから。
アイデンティティが似通っている人間は、その下品さゆえに、自分に近い人間だ、自分に近い仲間だと持ち上げてくれているだけだから。
――今回、とろサーモン久保田とスーマラ武智のインスタライブを拡散したファンたちがそうであったように。

でも、それはいちど広い世間に出てしまえばメッキだとばれるわけです。
品のない主張が通用するのはネットや即売会場の中だけ。

しょせん、彼らのファンは"悪い客"だったということでしょう。
彼らも、彼らのファンも、その程度の品を理解しない寄せ集めでしかなかった
というだけです。その程度の芸人にはその程度のファンしかつかないということです。
なるべくしてなっただけのことでした。


たしかに去年の上沼さんのマヂカルラブリーなどへの暴言はひどいものでした。
お昼にやってる「上沼のおしゃべりクッキング」も空気が重く、まったくおしゃべりできない暗い雰囲気で終始進む日本でもっとも陰鬱な料理番組です。
しかしそれでも、すくなくとも上沼が審査員にふさわしくないと考える人よりは、はるかに審査員にふさわしい物差しを持っている人です。





"第一線に立つ品があるかないか"


という基準で、審査員の寸評と順位とを見返してみたらいかがでしょうか。
深夜番組で終わる程度の漫才芸人を決める番組ではないんですね。




……と、まあ、選ばれた理由ははっきりと見えるんですが、それでも笑いというものは個人個人のものです。


笑いとは、共感からの裏切りがすべてです。
不細工なボケが、見る人すべてに「こいつぶっさいくやなあ」と思わせてから、
「ぶぶぶ不細工ちゃうわ!」とさけばせることで笑いが起きる。
これがすべてのメカニズムです。


だから、共感の領域次第では、スーパーマラドーナのようなサイコ芸でも、
クラスで変わり者といわれて省かれがちな人とかには受けたりするんですね。


審査員さんたちは、その共感を俯瞰で見れるほど芸能界にいた人物たちです。
今の時代の共感をえられる最大母数
というものが見えているわけです。

これも志らくさんの霜降り明星寸評ですが、

1番現代的で程がいい漫才なんでしょうね。だから会場もひっくり返ってウケてて、あとはうるさ型の人がたとえばお笑いに関係のないようなとんがった芸能人や文化人が食いつくかどうか、というのが勝負でしょうね。大衆はものすごく君たちを支持すると思います。

とろサーモンやスーマラと同じように
ネットで吠えるしかない人たちから得る共感が正しいわけではない。


どうあれ、見る側は、それらを意識した上で、
自分だけのナンバーワンを決めればいいんです。

霜降り明星が1位で納得いかなくても、
それは、あなたの共感のラインがメジャーから少しずれているだけなのですから。


ちなみに私のナンバーワンは和牛でした。あなたは?



それとも、あなたのナンバーワンが世間的にもナンバーワンでないとだめですか?

でも、そんなわがままな考え方は、絶対に共感を得られないんですよ。
だってそれが表に出た結果こそ、今回のインスタライブ騒動なんですから。




2018年12月6日木曜日

『赤松健には優秀なブレインがいない』現役作家兼経営アドバイザーが考える、"0円タクシー"に見る出版業界(漫画業界)逆転の一手はこれだ!【漫画村論争】

こっちの方が目次つきで読みやすいと思います。



現役作家兼経営アドバイザーとは誰かって?
すまんな、また私だ。
いろいろやっててすまんな。もちろん嘘松だ。

ちなみにゲームクリエイターの記事でもそうでしたが、私がどこの所属で、どんな作品関わったかに関してはいっさい明かすつもりはありません。
だって、SNSでよく見られる悲劇のように「作品が好きだったのに作者を見て幻滅した」なんてなったら嫌でしょう? 私だって嫌です。幻滅されるのはわかりきっていますから。
それに……
SNSでRT稼いで猿山の大将気取ってる作家のように哀れなものになりたくないですからね。

私自身は受賞歴も映像化歴もあるんで、そこそこの職業作家だとは思ってくれてかまいません。もちろん嘘松だ。




ところで昨日報道されたこのニュース、みなさんはもうご覧になりましたか?

 これ、びっくりしましたか?
私はしませんでした。ニュースを見た五人に一人は「やっとか」という思いはあったと思います。なにせ、個人が広告費で生きていく時代ですから。
次は協賛企業に帰属する無料スマホサービスでしょうね。
『DeNA』といえば、ただのソシャゲ・SNS運営会社のイメージから、NPB球団の運営の成功によって一躍事業者としての格を上げた現代の成功企業です。
『横浜DeNAベイスターズ』という、業界のしがらみと対峙し、自治体や関連企業と折衝しながら、一年の2/3において毎日数万単位の客を相手にする一大事業を成功させた功績は桁が違う。高田元社長の地域団体の趣味的経営とはレベルが違います。これによって社会的"信用"を勝ち得たDeNAにしかできなかったのが今回の0円タクシー事業です。資本のあるなしではありません、これをなしえたのはひとえに国内の"信用"です。


 とはいえアイデアそのものは誰にもありました
私にもありました。だから、私がずっと考えている
出版業界再興のアイデア
も「間違ってはいないんだろう」という確信めいたものを感じました。
そこで、このアイデアを気まぐれに披露してみようかと思います。
スクエニの記事ほど真剣な内容ではないので、暇潰しにでもこの戯れ言をお聞きください。








今回のトピックス



てことで今回のトピックスはこれ。
まあこの記事自体、筋違いの前提があるんですが、
それはおいおい言及するとしましょう。

今知っておいてもらいたいのは、
・出版業界全体の規模が減少している
・コミック業界が特に縮小傾向にある
・電子コミックのシェアが拡大している
という三点です。
つまり問題点はコミック――すなわち、漫画市場です。
ここを救うことが業界全体のプラスになります。


出版業界を救う方法とは?

答え:連載中の漫画の"既刊"無料化


ともあれ、出版業界を救う一案が私にはあります。
0円タクシー、漫画村のメソッド、そして電子書籍を絡めた方法です。
それは、
現在連載中の作品の既刊を電子上で無料化すること
すなわち、『既刊0円サービス』です。

こんなアホみたいな結論にいたった理由を説明していこうと思います。



理由その1: 活字は問題ない
ときに出版業界において、私の主戦場でもある活字はあまり気にしていません。
コミックにくらべて市場規模は小さいですが、もともと活字はそれなりに頭の良い人が求めるものです。長文をたれながしている私の記事を読もうとする人がそこそこ頭の良い人なのと同じことです。短く効率的(役立つ)なものを売るといういかにも、アホにものを売るマーケティングは完全に捨てている方針なので、それくらいは自覚しています。
客を選ぶものであると同時に、活字書籍の間口は非常に広い。近年では映画化もされた『火星の人』のように、

ネット上の洗礼を土台として、初期ロットの消化を見込んでから『出版』に至るという、コミックとは違って『完全実力主義』の体制が出来ているため、クオリティそのものは今後上がってくるものだと思います。特にアホは読めない、読まない、語れない、評価できないのが活字なので、これは弱さと同時に強さです。
異論はあるかと思いますが、日本の場合は『小説家になろう』などがありますね。これらはもともとあったサイトですが、アニメ化もした『ソードアートオンライン』『アクセルワールド』の作者の川原さんが電撃文庫の元名物編集者・三木一馬氏が先駆けとして行ったモデルによって爆発的に火がつきました。
川原礫 - Wikipedia
そして、魅力が確固たる作品は結局メディアミックスに到達します。その部分で、加速します。まして、漫画にさえなるんです。そもそもこの走りは『ケータイ小説』です。昔からある強みなんです。
しかしコミック、「漫画」はそういった単純な図式はあてはめられません。







理由その2:新作を出せない漫画業界と漫画家

出版市場から減少しているのはコミックです。
コミック、すなわち、漫画はなぜ見捨てられはじめているのか?
たとえば、「○○な○○さん」とか「○○は○○すぎる」とか、
ラブコメでさえない、ツイッターのお絵描きの人たちがRTを稼ぐのが限界だったレベルの性癖露出ものをかつぎあげなければいけないほどレベルがだださがっているということもある。メディアミックスしたときに、こういった作品はニッチな市場だったことはだいたいばれてますよね。みずから共有を生み出すのではなく、みんながほしがっているものをそのまま出せば必然、それが表現の場であればあるほどくだらないものになります。
かつての日本のドラマが女性向けの恋愛ものばかり出しておちぶれたように。そうであったのと同じく、アニメやコミックが、女性向けや、"二次元さえあればいい"オタクの恋愛脳に合わせてどんどんおちぶれつつあるように。
実際、アニメ化ブーストをかけた漫画が私の活字より売れていないケースはあたりまえになってきました。なかでもいちばん売れてなかったのは競女でしたね。あれはひどい(笑)
 とはいえ、これは個人の感想です。絶対間違ってはいませんが。

しかしもっとも問題なのは、
コミックは才能の露出に時間がかかるといった面があります。労力と時間を必要とするものなんです。
私のように文筆をメインとしていると、センスの強みは文筆側にある。私自身絵も描くのでその労力自体は理解に難くないですが、摩耗の速度と、挑戦の機会が非常に限られる。この記事をおそらく5時間程度で仕上げるだろう私の場合、本は一週間あれば一冊書けることもあります。二冊同時に進行するということもできます。

しかし漫画家の場合、一本のラインにかかる労力が半端ではありません。プロット、ネーム、下書き、ペン入れに打ち合わせなども入ってきます。
漫画家ばかりがガタガタと苦労を騒ぎがちなのもこのせいですね。

また、日本の漫画業界を牽引してきたものが週刊・月刊誌であったため、彼ら漫画家には連載というくびきがあります。その宣伝力と、打ち切られさえしなければ収入のメリットは大きいですが、もちろんデメリットはそのぶん大きく漫画家に負担をかけます。

書き下ろしをメインとする作家は、楽ではないですが、頭脳労働がメインです。一行に何日も悩むということがないわけではないですが、なにより締め切りの期間が長く、最悪ないこともある。映像化も基本は他人が勝手にやってくれます。これは漫画の原作家の場合もいくらかあてはまります。

連載をメインとする漫画家は、スケジュールに組み込まれ、労力の多くを週刊・月刊に注ぎ込まなければいけない。これは、原作つきのなぞり屋もふくみますが、そっちに関しては、しかたないです。絵しか描けないのだから、それはブルーカラーとしてあきらめてもらいたい。

そして、なにより、漫画家の最大の特徴。それは、
続きものをずっと描かなくてはならない
ということ。

ラノベ作家でさえ最低でも三ヶ月(ターゲット層は毎月のように買えないための方策)感覚ですが、コミックの場合、それ以上のスパンで新刊が出ることになります。
これは職業作家としてはいい面もあるんですが、出版業界全体で見たとき、ある一つの原則が影を投げかけます。

続きものの新刊の売上が、既刊を超えることはない
 という原則です。

続きものは、前のお話を読んでいる人が続きを買うもの
というごく当然の理由で、売上は常に前作を下回ります。そこで考えてみてください。

人気作品をとにかく長続きさせようという
昨今の編集の方針を。

なぜ活字が問題はないのか? そもそもの理由はここです。
次から次に新作があらわれるから。




理由その3:漫画村は成功だった

コミックといえばやはり『漫画村』。
一時期、『漫画業界』を揺るがす巨悪として扱われたあの"メディア"。たしかに許諾を得てもいないのにそれを成すのは問題があったかもしれない。

しかしそこに需要を見抜けなかったのは既得権益に拘泥する古い人と、労力の対価を欲しがるブルーカラー感覚の漫画家のせいです。

かつて第一線のラブコメ作家だったが成熟とともにその感性が失われて一介の運動家として生きる道をみいだしてしまって悲しい赤松健はそこに目をつけました。
赤松健 - Wikipedia
それが漫画図書館Zです。

しかしやり方がまずかった! 仕組みだけを真似して、旬の過ぎた毒にも薬にもならないものを皿にもってしまっていた! 古い漫画に広告費の価値はないんです!しかも普通に金とるし。
作品は鮮度が命です。時の洗礼を受けた名作はあれど、それらは出版者が権利を手放さず、新装版という形で世に送り出します。

漫画村はタダでした。
しかし、タダほど高いものはない。
漫画をタダで買う場合、読者が売り渡すのは時間です。
そんな大事なものを、時代遅れな三流作品に割くわけがない。漫画村のスムーズなUIがやたら評価されたのは、無駄な手間(時間)をかけずにすむからです。
効率を考えるのはバカの証ですが、そんなバカたちだからこそ「つまらない」と思ったものはすぐ切り捨てるんです。

漫画村が成功したのは、なによりもまず、
第一線の漫画が、無料で見られるからです。

むしろ弱小漫画家こそ稼げるのが、既存の出版業界です。
先人が漫画家をうまく回すことができるようにつくった仕組み。
そもそもそのバリアフリーにさえ乗れない人たちがよりあつまったところで、ひとつずつ作品性を見定められるような場に来て生きていけるわけないでしょう。




理由その4:利用費代行サービスの先駆者たるテレビメディアの例

テレビメディアは世界で最も成功した媒体の一つです。
なぜ成功したのか?

無料だったからです。
テレビというものがが、広告主が制作費を肩代わりする仕組みをもった
0円タクシーよりもっとはやく存在していた料金代行サービスだったからです。

だからこそ0円タクシーもアイデアそのものは「驚くべきことではない」んです。いつかだれかがやることは決まっていたことなんです。ただ、それがあなたや私ではなかったというだけで、社会の仕組みさえわかっていれば、だれもが思いつくものなんです。


しかし、テレビがもし無料ではなかったら?

番組ごとに単価が設定されるような媒体だったら、
見たい番組をいちいち買わなければいけないものだったら、
ここまで繁栄したと思いますか?

もちろん答えはNOだし、ネットの登場とともに即死していたと思います。
せいぜい放送局単体のPPVが限界でしょう。現代ではネットフリックスです。
日本もBSや有料放送に加入していなくても、NHKの集金という形でそれがあります。
PPVまでがメディアに対する対価の限界なんです。

番組を個々で売るようなサービスだったら、それはそもそも誰にも知られないし、話題にも上がらずトピックスとしても共有されません。
そして、購入者は初動から先細りの一途を辿るしかないんです。おそらく、連続テレビドラマというフォーマットさえ生まれませんでした。



しかし現代。
その連続ドラマに各話単価をつけて売ろうとしているのがコミック業界です。

理由その5:コミック業界が失おうとしているもの
しかし、ジャンプ・マガジン・サンデーは御三家と呼ばれるほど成功しました。
これも、結局、寄せ集めでありながら、毎回連続ドラマの単価をつけて売っているのと同じこと。なのになぜ成功したのか?
これにはれっきとした理由があります。

立ち読み貸し借りができたから。

現代、シェアという概念がようやく共有されてきましたが、
そもそも商売やサービスの本質はこれです。
既成のサービス・商品を共有し、その魅力を折半すること。
ソシャゲメーカーや同人作家という創作弱者でさえ、これを押さえていれば一定の集金は可能なくらいです。


そしてシェアは作品の広報となり、顧客獲得機会の拡大となります。
その機会を拾ってきたものが「本誌」にかわる「単行本」というものでした。
これはPPVに近く、こちらは今後、単体でも通用し続けるものです。

しかし、連載というメカニズムで金を生む仕組みをつくってきた漫画には、「単行本」に「続きもの」という条件がついてきます。現代は効率厨のバカが多く、出版業界にいる彼らは目先の稼ぎを求めて、続きものをつくらせる傾向はさらに加速しています。
そのとき、先ほど言及した「最新刊は既刊より売れない」デメリットが付与されます。

ですがいままでもこの仕組みはありました。この減衰を最大限にとどめてきたもの、それが、立ち読みと貸し借りというシェアです。

ジャンプの場合、ここにさらにアニメ化が加わります。
ジャンプアニメのアニメ化はコミックの宣伝という目的を確固として持っています。

しかしそのシェアの機会を近年、出版業界はみずから奪ってきました。
それを奪った原点。それは、立ち読み防止のテープです。
――そして、これから奪うであろうもの、それが電子書籍です。






理由その6:電子書籍が出版業界のマトリクスを失わせる理由と、電子書籍のシェアサービスの提案

現代のコンテンツでもシェアは行われます。
グリッドマンの記事で同人はコンテンツを汚すといいましたが、それは彼らがエロパロと性癖でしか自己表現できない創作弱者であり、ネットを通じて"表現できないと傷つく"観賞適応障害を起こしているからであって、やはり話題を共有してもらうことそれ自体にまちがいはありません
正統な形のシェアとしては、漫画レビューですが、結局レビューであって商品そのもののシェアではない。電子書籍の冒頭立ち読みなど論外です。あれでは伝わらない。

――そう、電子書籍は立ち読みも貸し借りもできません。
電子書籍が媒体に依存し、他人にそのデータを明け渡すことは違反になるから。

ならば、購入者に人数制限つきのシェア機能を与えるのも、悪くないかなとは思います。お小遣いを出しあって一つのものをシェアする、ということが電子上で再現できますから。

電子書籍の利便性はもちろんあります。
かさばらないことやデータが保持され続けることもありがたい。
出版と流通にかかるもろもろの費用をカットできるのも出版社的にありがたい。
作家としては、もう問屋がおろさなくなった何年も前の作品の印税がいまだに毎月電子書籍で入ってくるというメリットもあります。
でもそれだけなんですね。

便利というのは効率厨の考え方です。
本質が見えておらず、省略の果てに根幹まで無視してしまう。仕事を早くしようという人間がそもそも仕事ができないのと同じことです。


 これ。
電子書籍が活路みたいなことをほざいてますが、
いかにもモノのわかってない人間の言い方です。統計の初歩すら見えてない。
https://store.boxil.jp/media/images/uploads/media_image/media_image/30357/large.jpg
 電子書籍のシェア拡大出版業界の規模宿縮小には相関関係がある。
という視点をろくに考慮していないんですよ。






理由その7:「書籍」への信用が薄れつつあることについて


電子書籍のシェアが100%になった瞬間、
いまのままであれば、出版業界は破綻します。

なぜなら、その瞬間、「電子書籍」とは、
だれもよまないと評判「有料記事」と変わらないものになるからです。


私が書籍に手を出すのは――いや、そもそも書店というものが存在するのは、
「書籍のなかにかかれているものには価値がある」
という信用があるからです。金と同じように、"信用"があるんです。

 書籍が紙か電子かなどではない、「書籍」という概念への信用があるから、
「書籍」には価値があるんです。
「電子書籍」を支えているのは、もともと「書籍」が好きだった人。
もともと本が好きな人、その素養がある人たち、ビブリオファンだけです。

そういう人の多くは紙しかなければ紙で買います。ラックに置き去りにされたジャンプやマガジン、寂しい女のためのホスト誌の一冊や二冊は見たことがあるでしょう。邪魔なら捨てるだけです。

小型テレビ「ワンセグ」が開発されたことで、
テレビの市場が広がったわけではないのと同じことです。

「書籍」という概念が
いままさに宇宙から来たオーバーロードに消されたとして
そのときわたしたちがまのあたりにする「電子書籍」とは、
「有料記事」との見分けがつくものではないんです。
それよりなにより、タダですべて見られるものがあるのですから

いくら先進的と威張っていても、「書籍」の記憶がある人間が手を出すものです。
「書籍」という呼び方が、中身の価値をある程度支えてくれているんです。

――そして、世代が変われば、
人々が「書籍」という保証にかんじる価値は薄れていきます。
「書籍」という概念の喪失というSFは、時間の経過と世代の変化によって
徐々にですが、確実に起きていくことだと私は思います。

活字は新作を出し続けられる。だから問題ない。
ネットでも通用する。
なぜか?

書籍ではなく、「作品」で勝負できるからです。

市民がメディアに対価を払うのはPPVが限界といいましたが、
たとえば映画などのレンタルは、多くの作品がそれで完結しているから通用するんです。切り売りではなく、商品を一つドンと受け取れるから。作品単体の取引は通用するんです。小説だって基本が作品単体だから生き残れます。

しかしその作品を続きものとして切り売りしたとき、
書籍販売という形を強いられ、それが世代が進めば進むほど足かせになるんです。
連載が進むにつれてそれは追いかけなければいけないメディアと化すから。
だが追いつくためには1から金を出して切り売りに答えなければいけない。

だからといって打ち切り作家レベルが新作を粗製乱造することに意義はない。
事実、人気作は売れています。
低レベルな似非漫画家の話ではないんです。人気じゃない人たちをいままで先人の仕組みが補ってきたということだけで、それは今もかわらない。売れないのはつまんないからで、売れない乞食を救ったところで業界は盛り上がりません。
でもそれを売れるようにすることでコミック業界が発展してきたのは事実です。そしてそれはごく一部の天才の売上があってこそのものでした。
それが通用しなくなってきた。作品全体のクオリティの低下もあります、そもそもの販売方式の効率化もあります、なによりも、
業界を支える天才の作品を切り売りして効率的に儲けようとした結果がこれです。

活字は大丈夫といいましたが、「活字だから」大丈夫なんじゃない。
囲碁や将棋の師匠がそうするように、
見込みのないやつは無慈悲に切り捨てられる世界だから。
面白くて売れる天才しか残らないから、活字は問題ないんです。


たとえば本といえば神保町です。
神保町の書籍取引の強みとは書籍の「本当の価値」で売り買いできることです。
知識さえあれば、ちょっとした金策さえできます。
しかしこれはマニアの領域です。
神保町だけで書籍市場を支えることはできない。
書籍が高級品ではなく、バカにも売らなければいけない薄利多売の構造を持っている以上、適性価格のみで売買するやり方では通用しない。
その点、大型のシェアターミナルを務めてくれていたBOOK-OFFは必要悪でした。しかしそのBOOK-OFFも経営が右肩で、閉店する店舗も増えています。
それは、なによりバカの間で「書籍」というものへの価値が薄れてきたためです。

しかし「書籍」が見向きされずとも「漫画村」のように
第一線の"作品"
にはいつでもだれにでも需要がある。

手塚先生のような先人のクオリティをもって築き上げられた仕組みに甘えて、
需要のための作品しかつくることに甘えてきた二流作家たちをのさばらせた末路です。
やつらを生きさばらえさせるための仕組みを一流作家にも適用してしまった。効率化というくさびを与えてしまい、彼らの才能を切り売りすることが当たり前になった。


ただ、読者と感覚を共有できなければもちろん意味はない。
需要を裏切って我が道を行くだけでは相手になどされません。このブログのように。
需要を理解し、それをしてセンスを貫き、多くの支持を勝ち取ってこその「第一線」ですから。だから、最新の、第一線の作品には価値がある

ただ「書籍」というくびきと「続きもの」という足かせがコミック業界の足を引っ張るなら。しかしその仕組みが先人が築いた漫画家を支えるものであるなら。
それでも最新の"作品"はいつでもどこにでも需要があるというのであれば。

「既刊」というマイナスファクターを
広告者に肩代わりしてもらえばいい。

購入者シェアサービスの方が現実的なのはわかっています。でもこっちの方が効果はあります。絶対的に出版業界は押し上げられます。

あくまでアイデアです。真に受けるかどうかは好きにしてもいい。
私が提案することの本質は、

薄利多売の「薄さ」を一度考えなおしてもいいんじゃないかってことです。

問屋という存在があって、その仕組みを考えたとき、無料コミックというものは現実的ではないし、ならば実際に基幹誌を無料で配布しているサイコミが
無料マンガ配信サービス「サイコミ」公式サイト | Cygames
単行本にそのリターンを吐いているかというとけっしてそうではない。そもそもサイゲのコミック事業はメインではなく、自社コンテンツの宣伝に重きを置いている。膨大な資金力とコンテンツの最先端を行く彼らの実験の結果は、まだ出ていません。

でも漫画村は結果を出しました。

従来の「書籍」という枠組みを超えて、
「作品」には需要がある
と示した好例です。

漫画村の管理人は悪あがきのプレミアムサービスを見てわかるように、けっして頭の良い人ではなかった。しかしその行動の結果には意味がある。
戦時時の非道で無知な人体実験が、後の科学の発展に重大に寄与したように。
ガキの意趣返しみたいな似非サイトを作って悦に入るのではなく、もっとあのトピックスをみんなが研究するべきだったんです。




最後に


「電子書籍」を「書籍」としてとらえるから駄目なんです。
もっと使い方がある。あれをただのアクセスしやすいデータファイルだととらえれるパラダイムシフトによって、「作品」を中心とした新しいビジネスモデルが構築できる。

赤松氏がやっているような似非漫画村の形というのは、世間一般と戦える優秀な作家を出版者と奪い合う形になります。ウィンウィンになりません。
もともとの漫画村の形式そのものを出版社に還元する形でDeNAのような事業家に任せるってのもなくはないんですが、さすがにそれは難しいと思います。仕方ない。

あるいは、 コミック誌そのものを無料にするということもできますが、だめだと思います。サイコミがそうであるように、スポンサーの広告塔になってしまうということで表現の自由度が下がるということが最たる理由ですね。これはちょっとまずいです。もちろん第一線でやれる品性や熱量ありきの話なので、エロをばらまくしか能がない創作弱者の自由なんざ唾棄されて当然ですが。

同じように、無料アクセスのネットコミックを開くという方策もあります。
裏サンデーやジャンプ+など既にいくつもの前例はあります。
でも、そういうことではない。無料かどうかではなく、重要なのは、そこにあるものが第一線の作品かどうかです。現状、世間に通用しないニッチ二流作家の逃げ場なので、影響力なんてないです。というか、さっきいった創作弱者レベルのたまり場になっているのが実情なので。
そういう一流の人間は現実社会で看板を背負わされます。書籍コーナーに平積みされる本の表紙をかざらさせます。ネットで消費なんてさせません。


というわけで。
私のインスタントアイデアとして、
「既刊0円サービス」――いかがでしょうか?
一流の連載作品に無料でアクセスさせる、それがたった一つ業界を救うシェアです。


既刊の費用や印税などは広告主が持ち、だれもが読むことができる。これまでの販売のメカニズムは広告主が請け負う。あるいはそれを作品個々でやってもいい。ワンピースの既刊スポンサーになりたい人は山ほどいるでしょう。
これがよしんば一般化したら、コミック無料のデメリットである広告塔化を心配される方もいるかもしれません。
でも大丈夫。
対象は『既刊』なんです。
なんだったら巻ごとでもかまわない、そうすれば影響は与えられません。

もちろん、トラブルによって企業がスポンサーを離脱するなどといった付随してきます。『るろうに剣心』なんてあれはもう茜新社以外厳しいでしょう。あれの無料化だけはあきらめてください。
ともあれ、そこに関しては、契約期間を厳密に定めるしかないですね。
あとは出版社がどこまで責任を負うかにかかってますが……。
しかしここで希望がある。
それらのデメリットこそ、費用が最小限にとどめられ、だれもがアクセスしやすいデータファイルである、電子書籍だから最小限にとどめられます。
書店に並ぶ紙媒体には値段をつけてもいい。でも電子書籍なら極論すれば印税以外のマイナスはカットしようと思えばできるんです。
そんなわけで、これが私の考えるアイデアです。
スクエニの記事にくらべれば、ちょっとおふざけの過ぎるアイデアかもしれませんが、それなりに本気でいってはいます。



え?
どこがそんなサービスのスポンサーになるかって?

とりあえず候補は一人いるじゃないですか。

すべての週刊漫画雑誌をひっくりかえしてみればそこにいる業界の牽引者が。
なんだったら某TVの予算、出版業界にわけてみたらどうですか? 









[閑話]

喧嘩稼業(11) (ヤンマガKCスペシャル)

2018年12月4日火曜日

「FFⅦリメイクは失敗する!」現役ゲームクリエイターが"真剣に"追求するスクエニの現状


現役ゲームクリエイターとは誰かって?
すまんな、私だ。
ゲーム分野においては、ドラクエの堀井さんもかつてたずさわっていたシナリオライティングを主戦場としています。


しかし筆者はスクウエア・エニックスと案件をもったことも、所属していたこともありません。
ただ、旧スクウェア&旧エニックス、あるいは旧スクエニスタッフが多くいる血縁的会社や、彼らがサードパーティーとして付き従っているリーディングカンパニーとはつながりがあります。
現スクエニを知る人間も周囲にいないのですが、旧の状況なら聞くことはできました。
なので、今回の記事はある程度類推が入ってくることはご了承ください。
しかしその分いつもに比べて煽りは控えめになっています。


というか、今回の記事はじつはお蔵入りにするつもりでした。
いくら匿名とはいえ業界の他社を邪推するわけですから、せめて現スクエニの内情を知っている人間が身近にいてほしかった。それくらいの根拠がないとやってはいけないのかなという思いがあったわけです。
……ですが、ふと気付いたのです。
第一線でゲーム製作に関わっている私であるにもかかわらず、周囲には近年スクエニからやってきた人間が一人もいないということ。
――その事実こそがスクエニの病巣のありかを如実にあらわしていることに。






てことで今回のトピックスはこれ。

hal51.click
jp.ign.com
mynavi-creator.jp



ひどい。


まずは一番上と二番目の件。
簡単にいえば「発売するぞ」と広報していたAAAタイトル関連ソフト
総合的な損失がやばいから
4作中3作「やっぱ出しません」と言ってのけたという事件。

下の件は、FFⅦリメイクが発表されてなお、実は人員が集まっていなかった、開発してなかったよということが判明した事件です。


しかしこれらの狂騒によって、
実はスクエニが抱える問題は丸裸になりました

というわけで、スクエニが抱える問題をこれから
A.社会人なら察するレベル
B.業界人なら察するレベル
の二段階に分けて説明しようと思います。
その上で、我が思い出のFFⅦリメイクの約束されし失敗の根拠と、
それを脱却する方法をお教えしようかなと思いました。
わりとマジでこの記事はスクエニの上層部に見てもらいたいところではあります。
なんだったらアドバイザーとして関わってもかまいませんわりとマジで。

では、とりあえずかつてのJ.RPGの雄の凋落の原因を探っていくことにしましょうか。



――ちなみに堀井さんがいる以上、ドラクエプロジェクトはまだ安泰だと思います。
だから今回は坂口氏が失われておちぶれたFFブランドに重点を置き語ります。









A.社会人なら察するスクエニの問題点


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スクエニの諸々の失態はディレクターの勇み足に端を発します。
どのような力学がそうさせたにせよ、開発していないものを開発していると言うことは"早い""遅い"の問題ではない。理由はいくつか考えられますが、いずれにせよ同じことです。
『JP GAMES,Inc』代表にして、FFXVの元ディレクター・田畑氏の言動に関しても同じことが言えますね。


ではディレクターという業種はゲーム会社においてどのようなものなのか?
ここでゲーム開発現場の構造を簡単にお教えします。

-----強-----
社長、幹部、プロデューサー
ディレクター&シニアディレクター
プランナー&シナリオライター
制作・開発に関わるその大勢のマンパワースタッフ
-----弱-----

こういったトップダウン構造になっています。
複数のプロジェクト(以下PJ)を抱えている巨大メーカーなら、ディレクター以下がPJ毎に存在しています。権限によって力関係を区分するとこうなります。


社長・幹部・プロデューサー
==経営判断の権限==
ディレクター・シニアディレクター
==開発進行の方向性を決める権限、実装判断の権限==
プランナー・シナリオライター
==企画・発注・主導の権限==
その他大勢




――では、ディレクター陣の勇み足が起きる原因は?



社長・幹部・プロデューサー←ココと
==経営判断の権限==←ココが機能していないから
ディレクター・シニアディレクター
==開発進行の方向性を決める権限、実装判断の権限==
プランナー・シナリオライター
==企画・発注・主導の権限==
その他大勢



つまりなんですが、これは社会人ならわかると思います。
無能な上司が「どうにかしてくれよ」と仕事を投げた結果、
本来決定権のない下位の人間が「判断せざるをえない」ことになってるんです。

開発現場の人間が、客観的に、マクロにゲームのクオリテイを見ることは不可能です。
なのに総合的に出来不出来を判断するべき上層部が何もしていない
だから、若造のディレクター風情が判断を下さなければいけなくなっているんです。


この手の複数PJを同時進行している巨大メーカーには社内検討会があります。
(もっと正確な言い方はありますが、それを言うと私の所属がばれかねないので控えます)
ミーティングなどで制作中のPVを披露してきゃっきゃする憩いの場とは違う。
経営判断の権限を持つ人々や、他PJの責任者を交えて、会社全体でゲームの開発進行状況を精査する監査の場です。

そこで考えてみてください。

あれほど未完成といわれたファイナルファンタジーⅩⅤでさえ
この社内監査の洗礼を受けているんです。
経営判断者やその他有力者はすべてあれを目の当たりにしていたんです


……ただ、ある条件下においてこの登竜門はフリーパスと化します。
プロジェクトの主導者が、社長であったり、また、社内ででかい顔のできる古株ディレクターであったりする場合です。

ゲーム会社は出入りの激しい職場です。
有能な人間はすなわち実力のあるクリエイターですから、そういった人間がひとところに留まるということはないんです(私も一つの会社にずっと所属はしていません)。とくにディレクションなどのクリエイティブの能力を問われないポジションで"古株"になっているというだけで大抵は無能になります。

おおかたクソゲーとはそうして生まれるものです。
そして思い返してみてください。
上層部から仕事を投げられるということは、ディレクターに政治力が与えられたということです。でかい顔ができる権利を結果的に与えられてしまっています。上層部の監視がないので、結果的にそういうことになります。

これが、社会人がチラ見するだけでわかるスクエニが抱える問題の根幹です。
経営側制作・開発側が分断されてしまっているということです。

脳機能を失って這い回るゾンビというのは言い過ぎでしょうか?
FF15が過去の遺産をネクロマンスしてなんとか動くようにしたもの、前頭葉を失って何が正しくて何が悪いかを判断できないまま与えられた命令を実行したもの。
といえばあながち筋違いではないと思いますが……。




さて、ここまでは素人でさえ見誤ることはないでしょう。
ここからは私の経験則が問われてきます。









B.業界人なら察するスクエニの問題点


ここからはかつてのスクエニ(10年前近く)スタッフの証言付きの話になります。

スクエニが合併する前のスクウェア時代、エニックス時代は才能の宝庫でした。
互いに日本ゲーム業界の中心たるJRPGの覇を競う二大巨塔だったのですから、それは言うまでもなく当たり前です。
しかし彼らは今私が関わっている現場の方にいます。
そう、現在のスクエニにはもはやかつての二大巨塔を支えた才能はいないんです

ゲーム会社は「才能の止まり木のようなもの」であることを先ほど触れました。
その『才能』を引き留めるのは、彼らのセンスを刺激させるに足る魅力的な「プロジェクト」と、人間社会最大の評価基準である「金」のみです。
巨大ゲームメーカーはその二つの血管をもって、巡る才能を統率する心臓と化し、いくつもの作品を生み出し続けてきました。
クリエイターが出入りする中、いくら引き継ぎをしても、センスを引き継ぐことはできません。それでも、外せないスタッフを金で引き留めることで、ブランドの中身を支えるという方策をこれまでのゲームメーカーはとってきました。

つまりスクエニはそれができなかったということになります。
はたして何があったのか?

かつてのスクエニが陥った赤字経営時代にさかのぼります。
外部から承知した和田CEOが大なたをふるって有能な人材を次々と切ったという流布もありますが、そもそもの実体は
赤字なんだから才能を引き留められるわけがない。
というところにあるわけです。ごく単純な有能スタッフの流出です。

いくら引き継ぎをしたところでセンスは引き継げません。
そうして、しくじるべくして輸血にしくじり、メーカーは壊死したのです。

スクウェアエニックスを破壊しつくした和田洋一を振り返る、10年の戦いが終結
ちょうど同じことを語っているこの記事にいい文言がありました。引用します。


そもそも、旧スクウェアは一部を除いて金で人を寄せ集めたような会社だったわけだ。
その会社が、金がないからと人が去り、残ったのはカスのような人材のみ。
逆に入ってくるのは旧スクウェアのゲームが好きだったおたくのような存在。
そんなものがまともなゲームを作れるわけないよな。
そうして出てきたのが「ファイナルファンタジー13」であり「ファイナルファンタジー14」。また、遅々として進まない「ファイナルファンタジー ヴェルサス13」なども同様だ。

「好き」という気持ちや「ファン」であることしか武器がない――
――そう、まさに同人作家のような人間が入ってきてしまったわけです。

一方、自分の能力を金に換えられる人間は出て行くのは常です。
そして、そうではない人間が居座る。もっとも問題なのは――それは制作・開発レベルではなく、
上層部でも同じことが起きていたんです。





つまり、ゲームを作る才能がない人間が、ゲーム会社の上澄みに残ってしまった。
たとえるならば、自社内部で発生した「天下り」です。


そんな彼らに何ができるかといえば……
美空ひばりの息子などを見るとわかりやすいかもしれません。

歌もうたえない息子に残されたものは母の遺産。
その遺産を管理し、骨までしゃぶるように切り売りすることだけが唯一できることです。

遺産とはゲーム会社においてはIP(知的財産)と呼ばれるものになります。
たとえばFGOなどは「fateシリーズ」という『TYPE-MOON』に帰属するIPを許諾を得た上で借用しているゲームタイトルです。
一方、スクエニの場合、かつての才能はのこっておらず、『ファイナルファンタジー』や『サガシリーズ』など彼らが残したIPだけがある。
――それを使ってできたことは?

ガチャゲーですよ。

粗末なFFタイトルのソシャゲが連発されているのはそういうことなんです。
自社IPでありながら、作ったのは過去の先人たちであって、
他社IPのガチャゲーを作っているのとまったく同じ構造なんです。
ただ単に自社が保有している知的財産でしかないってことなんです。
他社IPならまだ慎重になるが、自社のものだから「数撃ちゃ当たる」を平気でできる。



これ、以前語った創作弱者の悪あがきとそのまま同じなんですねえ。
エロはなくとも、パロだけでなんとかしようとしているってことです。





そんな彼らだからこそ、FF12やFF13、なによりFF15といった
見るに耐えない貧弱なコンテンツが生まれてしまったんです。

――どういうことか?

直近のFF15の未完成DLC商法や、FF15のIPを使った派生ゲームの連発を見てください。
そして、間を置かずしてFF15キャラが自社ソシャゲに派遣されたことも。


スクエニの上層部が欲しかったのは、
すでに使い古しになりつつある過去のFFに代わる新しい知的財産――

「ファイナルファンタジー15」という新たに使い回せるIPだったんです。
誇れるゲームタイトルが欲しかったわけじゃない。

創造性のない人間が資産運用するための、
新しいファイナルファンタジータイトルを求めていたのであって、
中身なんてどうでもよかったんです。

そもそも15が元々「FF13ヴェルサス」なんてタイトルだったことからして明白じゃないですか。新しいものを作るつもりなんてなかったんですよ。

12も13も15も見るべきものがあるのはわかっています。でもそんなこと言及する場ではない。15で問題視されたシナリオの特徴だって私ならプロとして分析できますしどうすればよかったかもわかります。でももう遅いんですなにもかも。


さあ、現在のスクエニ上層部が求めているのは
ロイヤリティあふれるファイナルファンタジーのIPだということがわかりました。

彼らは、魔法のようにIP資産が手元にあわれることをずっとずっとずっと願っています。
その上で、スクエニの勇み足を見直してみましょう。


人材不足・開発未定にも関わらずのFF7リメイクの発表。
2018年決算報告におけるAAAタイトルへの原点回帰宣言。
一方、知的財産として見限ったFF15のDLCの開発中止。

赤字の部分は経営判断できる上層部しかゴーサインを出せないものです。

そしてこれらはすべてIPを求める希望的観測であり、そのアピールでもあり、
しかしてその実態とはスクエニの上層部が両手を合わせて祈るだけの

かみさま、ぼくこんなものがほしいな

というだけのお願いなだけなんです。
同時に、こんなものいらないよと自社製品を切り捨てる幼児性まである。

そんな思考を平気で承認し、発表させ、平気で取り下げちゃうのが現在のスクエニです。
最低の体制です。

ファイナルファンタジーという魔法の枕詞があれば、魅力的なIPが生まれてくると思っているんです。そういえばFF15の魔法はやたら強力でしたね、そういうことか。



……さて、これらが現状のスクエニ上層部が抱える問題です。

もちろんディレクターが優秀ならドラクエのように安定感を持つことはできます。特に堀井氏はシナリオライターだし、ビジョンというものが明確にある。
一方、ビジョンを持たない絵描きやプログラマーが継承できるようなものではない。仕事をたくさん抱えているかどうかなんて関係ありません。








――しかし。
「だからFF7Rが失敗する」というのはただスクエニを軽んじているだけです。
あくまで論理的に、しくじる理由というものがロジカルに説明できるんです。












C.第一線のクリエイターなら察するレベル



スクエニの決算報告において事業方針の転換が宣言されました。
次なる方針とは、

事業⽅針の⾒直しを実施し、
同社の強みをより⽣かす⼤規模⾼品質ゲーム開発へ集中

すること。当面の大本命がFF7Rであることは言うまでもありません。

はい、ぜったいに失敗します。

とはいえ、ファイナルファンタジーにおける失敗とは売上ではありません。FFのナンバリングであり、適度な広報を打てば、必ずミリオンに乗るのがFFです。
たとえばFF15は800万本を超える売上によって既に開発費の回収を果たしている。
それでもDLCは乱暴に打ち切られた。つまりIPのロイヤリティが既に死に絶えたからです。ロイヤルエディションが起こした悲劇や、生まれながらにして死んでいった派生ソシャゲの末路を見れば素人にだって先がないことくらいわかります

これがファイナルファンタジーにおける失敗の定義です。



FF7はここまでよく延命しましたが、今回でいよいよ出涸らしになるってことです。
作者がそこまで考えてない程度の作品がアニメ化と同時に消費のゴールを迎えたように。

もちろん、特別損失37億円を計上してまでルミナスエンジンと直結するFF15の開発を打ち切ったのは、もうFF15では稼げないからです。いやそれどころか、将来的にそれ以上の巨大な損失が見込まれる不良債権となったからでもあるんです。
また、ソシャゲ事業の言及からわかるようにIPの切り売りすら通用しなくなってきたことから、FF7コンテンツにすらケチをつける反動は単純な損益を超えて凄まじいもののはずです。それならいっそ出さない方が良い、虚偽申告によって会社に対する期待値を維持することができますから。


ではなぜFF7Rは失敗するのか?
それは、「スクエニがこれまでFF7を使い回し過ぎて陳腐化したから」とかではなく、「リメイクが遅きに失したから」といった理由でもありません。

スクエニが目指している「高品質ゲーム」は、
ユーザーの考える「高品質ゲーム」と合致しないからです。

スクエニの工数をスリム化して、余剰人員を巨大プロジェクトにいくら投入しようとも誇れるAAAタイトルにゴールできないのが目に見えているからです。


大規模高品質ゲーム(AAAタイトル)――それらRPGの成功例といえば、ファンタジーなら直近では「TESⅤ:スカイリム」や「ウィッチャー3」などネットワークに頼らないロールプレイングが勝利者の座についています。でも今のスクエニには到達できません。ビジョンあるリーダーがいればドラクエのような地域密着の堅実な作品まではいけますが、AAAタイトルだけは絶対に不可能です。

なぜって?
優秀な人材がいないから。


上層部と同じように、
ディレクター・シニアディレクター ←ココと
プランナー・シナリオライター ←ココと
その他大勢のマンパワースタッフ ←ココが
無能ばかりだからですよ。



どうしてそうまで断言できるのか?
スクエニがリリースした最新のハイエンドゲーム
ファイナルファンタジー15
を例にとって説明しましょう。
だってこれが彼らの思う高品質ゲームの代表なんですから。






ではここで質問です。
はたしてFF15が「力を入れていたもの」は何でしょうか?
ここにこだわったとアピールしていた部分は何でしょうか?












――そう、おにぎりだよ。


『ファイナルファンタジーXV』延期の裏側と目指す到達点――田畑端氏インタビュー【gamescom 2016】 - 『ファイナルファンタジーXV』ファミ通.com 特設サイト


おにぎりひとつに
召喚獣リヴァイアサン
と同じスペックの労力を注ぎ込む狂気

けど笑い話じゃないんですよ。
路傍の岩なども実際に撮影して、それを取り込み、ビジュアライズすることに心血を注いでいたというエピソードもありますね。そしてVRシステムを適用してやることは釣り、力を入れたのは魚のグラフィック……。
それを公式が推す神経が異常なのは素人でもわかりますよね。

グラフィックやムービーに力を入れていることはわかります。
ただ、総合的に見たらすごくもなんともないですよね?
どんなグラもお使いでとおりすぎるだけだし、シナリオはどっちらけだし。
だいたいちょっと動こうとすれば、バグが起きるし




……けど、この惨状ってすごくロジカルに考えると単純な答えが出るんです。
狂気じゃないんですよ、こうなるにいたった経緯にもっとわかりやすい説明がつくんですよ。クリエイターならみんなよくわかることです。


これは、
ゲーム開発のみならず、
映画やアニメなどをもふくめた
あらゆるクリエイティブにおける一つの重大な至言です。



グラフィックはマンパワーで向上する。
才能はいらない。


グラフィッカーは認めたくないと思います。けど、グラフィッカーがグラフィッカー同士で傷をなめ合わないといけないほどバリューがない存在だということは同人誌記事ですでにお伝えしました。

abcefg3135.hatenablog.com

というか、もうさっきのおにぎり記事で言ってるじゃないですか。
「実物を取り込んだ」って。絵と同じように、もともと存在するものを具現化するのは
体力と根気だけでどうにかなるものなんです。基本はデッサンで、応用もデッサンで、それを超えるのはピカソですらなしえなかったんですから。


つまり、
消去法で繰り上がっただけの半人前ディレクター
会社を股にかけることもできない平凡なゲームクリエイターができることって

絵面をキレイにすることくらいしかないんですよ。


FF15の制作進行がグラフィックの洗練に傾注したのは、それしかできないからです。
ユーザーへのプレゼントであるゲームソフト、その中身そっちのけで、ラッピングにばかりに悩んでる人たちなんです。
商品が作れないから、そんな頭さえ働かないんです。

たとえば
子どもがドラッグストアに行ってお使いするだけのゲーム
でしかなかったとしても、町並みをリアルに綺麗に描くことはできるわけです。どんなに中身がなくても。でもそれは絵じゃん。で終わるわけですね。それと同じ。


逆にいえば、人材が失ったスクエニでも、頭数さえ集めればグラフィック面は上の水準までもっていくことができる
塵を積めば(グラフィックを取り込めば)、山になる。当たり前ですね。

……そこにこだわるのは、「ファイナルファンタジーの魅力は美しいビジュアルだから」でしたっけ。
いやあ、いかにもグラフィッカー上がりの野村氏がそれしかできないという自己欺瞞の果てにたどりつきそうな答えですが、
違いますよ。
もともとFFは、FF3の飛空挺の挙動や、FF4のリアルタイムバトル、FF7のムービー中のキャラ操作、FF8の等身を維持したままのバトル移行など、不可能を可能にして、未知のゲーム体験を売ることが武器だったんです。
美しいムービーやビジュアルを維持したままのゲーム進行なんてもうとっくに可能にしたんだから、こだわるところじゃないんですよ。もともとFFには既存の力関係にさえ加わらない「アイデアマン」というポジションさえあったんですから。
一方、野村氏のアイデアなんてファルシのルシがコクーンでパージみたいな、
きさらぎ駅のような奇怪な異世界体験しか与えてくれなかったじゃないですか。

グラフィッカーでセンスが出るのは【動き】の部分です。たとえ高品質なグラフィックでなくとも、スパロボのアリオスの人とか花騎士の茶助とか、けっして出来の良いモデルをつくれなくとも、動かし方には他人とは異なるセンスが出ますよね。


……けど、そのグラフィックさえ実はまともに機能していない。
止め絵しか綺麗じゃないから。



【FF15バグ】車の若者離れ【コメ付き】


止め絵だけ見栄えのいいモデルだけポンポン置いて、ろくに連動も機能もしない。
真顔で黙っていれば美人というどうしようもない置物しかない。
なんでこんなことになるかって?
プログラマーが要求に応えられないから。そもそもなんで数多のバグがあるかといえば、ゲームの屋台骨を支えるプログラマーが役立たずだからだよ。

魔法さえ使っていればいい戦闘、終盤のあれこれのレベルデザイン……ひとつずつ数えていけばキリがないけど頭脳労働の人員さえまともに頭を使えていない

そして、多方面からむちゃくちゃ叩かれたシナリオライター。いかにも女性作家の悪癖が出ていることはまちがいない。けどそれ以前の問題がありました。


彼女のやりたいことくらい同業者なんだからわかりますよ。
あの人はいわば、松本大洋や今やすっかりおちぶれたひぐちアサみたいに
台詞でキャラを表すのではなく日常的な言葉と自然な行動で描こうとしていたわけです。犠牲に心を痛める心優しき王子が、それをして使命と向き合い、なお「辛いよ」と告白する物語を。

星の危機に立ち向かう王子でなく、厳格な家に生まれたスパダリでやれと思わざるをえないですが、それはそれとして、長い旅の道中、幾たびも交わされる彼らの言葉や行動から、彼らの人間としての輪郭をつかんでほしいってことでしょ? やりたいことは100%わかってるけどそれが筋違いなの。
自分が主人公じゃないRPGって、感情移入したいキャラが必要なの。まずどんなキャラか明確に伝えなきゃいけないの。
だらだら架空のキャラの生態を描いて、それを観察していれば勝手に性癖にクるような「やおい」とは違うの。

FF5~10は特にキャラが一発でよくわかりました。初見で主人公がアホの子だとわかるFF5から、初見でちょっとアホな子だとわかるFF10まで……。

さっきも挙げましたが、ラストのノクトの「やっぱつれぇわ」もそうですよ。
伝えたいことをはっきりと全部こう示せばよかったんですよ。

「歴代の王に並ぶ覚悟はした」
「ここに来るまでの犠牲すべてを力に変えてみんなの期待に応えるつもりだ」
「だからもう言葉は出てこない」
「でも、お前たちと旅をした一人の男が、伝えて欲しいって言ってるんだ。最後に」
「『やっぱつれぇわ』って。」

いやまあ仮ではありますけど、こういうことでしょ?





上層部は仕事しない。
ディレクションはビジョンがない。
主導はやおい。
マンパワーはノーパワー。
できることはよってたかってパッケージに力を入れるだけ。
そんなスタッフがみちびくFF7の未来予想図はもう見えています。

話題になるのはやたら気合入ったクラウドの女装だけ。

それだけ、マジで。


グラフィックが向上しないとできないことなんてないんです。
フリゲレベルでは、かの怪作インディーズゲームHotline miamiのドット2Dをベースとして、『Half-Life2』のゲーム性を見事に再現したような例もあります。やりたいことというものがはっきりしていれば、どんな媒体でも再現はできるわけです。
グラフィックなんて、荒野行動レベルでさえ充分なんです。あの会社ってマーケティングは上手いし、しかも、プログラマーは優秀です。軽さは優秀さの最大の尺度です。スタッフは精鋭で、能力はスクエニのそれを上回っているでしょう。人数に差があるだけ。


プランナー◆20年の時を経て生まれ変わる「FF VII REMAKE」を創造せよ。


当時話題になったFF7Rスタッフの求人ですね。
「FF7への熱い想い」とかさあ……だから同人かよって。
やるべきことが違います。

まずは当時のスタッフを大枚叩いて召喚すんだよ!

だいたい、ちゃんとした物作りできる人は、「好き」という前提条件がなくても「理解」します。「好き」とか「ファン」であるとかが免罪符になるのはアマチュアまでです。ファンやオタクがクリエイターになれないっていうのは昔からの金言でしょうが。
自分のセンスがある人なら、そんな情熱などなくても求められているものを理解できるし、1からコンテンツを好きになっていくことくらいできます。さすがに「知らない」となると問題があるかもしれませんが。

そもそもFFはドラクエのコピー作品でしたけど、ドラクエを作ろうとはしてませんでしたよね? ドラクエが好きじゃなくていいんです。まして"創造"とまで言うのなら。


だいたいグラフィックに関しても、止め絵が上手なだけで、
これをほめそやすのはゲハ戦争の兵士たちか同じレベルの人間くらいのものでしょう
スクエニの美麗なグラフィックは、プログラムとは連動しないただの風景です。
本気でグラフィックを向上させたいなら
ピクサーの小林烈氏くらいのレベルを引っ張ってくるべきなんですよ。




開発ラインを整理して、他PJから人員を引っ張ってきてもまともなAAAタイトルが作れない状況は変わりません。他社から引っ張ってくるしかない。
必要とあれば積極的に外注すべきだ。アンリアルエンジンで開発なんだからそれも問題ないはず。
なによりもまずプログラマーが必要だ。それがすんだら、あとはもう片っ端から。できることなら元FF7オリジナルスタッフ。いなければ高給とりの優秀な人を。スクエニ内部に見る目のある人間がいないから、いっそプロデューサーを立てればいい。可能ならばなんとか坂口氏を監修の立場に組み込む。
とにかく、
外様にデカい金ばらまいて傭兵に来てもらうしかないんです、かつてのスクウェアみたいに。


www.jp.square-enix.com

まあ実際はこうですけどね。"FF7で育った"クリエーターが結集中だそうです。
それが無能の尺度になるわけではありませんが、上がこれを誇るのでは話にならない。

冒頭でアドバイザーになってあげてもいいといいました。
まあそうなることはないでしょうが、どっちにしろ、私は傭兵集め第三者監査をおすすめすることになると思います。もちろん後者は極論で、ゲーム会社特有の守秘義務ゆえに難しいところではありますが…。(ゲーム会社は開発フロアの窓が全て締まりきっているくらい情報保護に敏感なところです)



ゲーム業界は才能ある人間が会社に股をかけて活躍する戦場です。
とくに大きいメーカーになればなるほど毎週のように新しい人材が入ってきては出ていくといった様相を呈してきます。OJTもそこそこに一週間たたずに戦力としてバリバリやっていくのが当たり前の世界です。
――そこで見えてくるひとつの現実。"近年スクエニにいた"というクリエイターが第一線の私の周囲にいないということは、だれも外に出てきていないってことなんです。
スクエニは新陳代謝を失って、老廃物がたまりにたまってるんです。

才ある人間が必要とされています。問題点も改善点もただそこだけです。

だがそういった人物の価値をはかれる人間がいるかがまず怪しい。
だからさっき言ったように、プロジェクトの裁量を全権委任したプロデューサーでも立てるくらいのことをしてもいいんじゃないかというのはわりとマジで言ってます
もちろん多額の予算を与えて、ですけどね。










ところで、みなさんは
ダウンタウンの浜田が司会を務めるバラエティ番組『プレバト』はご存じですか?

『プレバト』には、芸能人がしたためた俳句を、辛口の俳句の先生が採点する人気コーナーがあります。
そこで一つの句をめぐって先日史上はじめての出来事がありました。



帰省ラッシュの思わせる渋滞の写真を見て一句。

 変わらぬ景
   うつむき見たり
        草紅葉


『才能アリ』と評価されたこの一句。
しかし詠み人の解説によって評価は逆転します。
「変わらぬ故郷への郷愁」を描いたものかと思いきや、単に「車が渋滞で進まなくて暇だから、窓から首を出して道ばたの草を見ていた」ということをうたっただけだと判明したのです。中身がスッカスカなことがばれて、いくら響きが良かろうが、ゴミはゴミとして『才能ナシ』の烙印を押されました。

この場合、解説さえなければごまかせたかもしれません。しかし、ゲームはそうはいきません。プレイヤーを架空の世界に招き入れ、彼らに没入感を与えるもの。いくら上張りが良くても、そんなものは中身の貧困さに比べれば何の足しにもならないのです。

そうなったとき、どうすればいいか?
その答えは、「才能ナシ」の烙印を与えた先生が詠み人に送った言葉にあります。






一からやり直しましょう、そうしましょう。








[閑話]
私がいちばん好きなファイナルファンタジーは5です。

2018年12月2日日曜日

【気持ち悪くてたまらない】史上初の男の子プリキュア爆誕!






今回のトピックスはこれ。
まず感想としては、



    




それはそれとして、時代遅れ感は否めないですよね。
スーパーマンに対するスーパーウーマン、マーベル最強のキャプテンマーベル。
そもそも少女向け変身ヒロインの元祖たるセーラームーンでは百合界のレジェンド
セーラースターライツという男女どちらにも属さない歩くジェンダーフリーがいて、
LGBT程度のくくりなど飛び越えてXジェンダーさえきっちりと押さえていたのに。



百合界のカリスマの魅力のほんの一部を伝える動画

セーラースターライツ メイクアップ

え? それも知らない? Xジェンダーもご存じない?
じゃあなんで史上初の男の子プリキュアで興奮してたんですか?
偉業に興奮してたんじゃなかったら、ただの性的興奮以外何かあります?

いや、実際には別にとりたてて騒ぐことではないですよ。
キャラだっていかにも女性的な見た目だし、嫌悪感を抱かせるタイプじゃない。
絆創膏が似合うようなよく日焼けしたゲーム大好きな少年が変身するわけでもなく…


ボクらは魔法少年 1 (ヤングジャンプコミックス)

そう、残念ながら私はこの方向性にはあなたたち以上に理解があります。
冒頭の暴言はなんだって?

朝もはよからニチアサにむらがって
かわいい男の子がプリキュアになったことに狂喜乱舞してる
いい年したおっさんおばさん
クソ気持ち悪いなって話なんですけど。

そう、ネットで発信し、拡散するのはガキの仕事じゃないです。
せいぜいもう中学は卒業しているであろう、いや大半が成人してる
良い大人です。

アンリくんはいかにも綺麗な見た目なので、オタクの新機軸のオカズにもなるでしょう。
あとは鼻息荒い勘違いフェミニストがあれこれ語り出すかも。

ゆづゆづはリアルシンジ君だとほざいていたリアルsyamuさんみたいな人たちは、



さっそく復活したばかりのsyamuのリスペクトを始めていますね。

まあなんにせよネットを見ているかぎりだと

新しい性のおもちゃ

ができたんだな…と。
まあ、日本とアニメの組み合わせだとそうなりますよ(笑)

代理性の恋愛にどっぷりつかってる連中ですから、
この程度のことが大ニュースなんでしょう。



結局こういう方向性でしかないんですよねー(笑)
いや、尊い尊い(笑)






今回のプリキュアはテーマ的にいろいろと攻めていて、
(というか、他が生活感がないものばかりで本来少女向けはこうあるべきでしょう)
出産だのなんだのいろいろ盛り込んだ結果、これを女児アニメでやるかとかいう変な大人が筋違いの興奮のし方をしてますね。


アンリくんがフィギュアスケーターってのもいいですね。
もともとフィギュア界というのは性差の解放に積極的です。
フィギュアスケートとその選手を通じて、愛の広さを描いたあの有名な作品。
そう――


俺たちフィギュアスケーター




ド下品なゲイネタコメディの名作ですね。
もちろんフィギュア界のスターも出演されてますよ、ノリノリで。


ん? ゆーり…ユーリon ICE?
ああ、そんなのもありますね。別にそれだけではないですけど。



もうオタクはもうなんでもかんでも代理がきくな!うらやましい!
そりゃそうだ、原作無視してBLTL百合って形で理解して満足なんだから!もう!

正直ネットに触れてるとフィギュアスケートが
ファンのせいで
気持ち悪く見えてくるのでそろそろやめていただきたいです。


代理性愛で自分を慰めてる連中が、ていのいいファンタジーとして「同性愛」の理解者を気取ってる文化圏です。
もうLGBTとかの枠組みさえ遅くなってきてるの、知らないんだろうなぁ…。





いやあ、しかしキャプテンマーベル楽しみですね。マーベル界最強のヒロインですよ。男たちの中で活躍する最強の女ヒーローなんですから。
…にしてはあまり騒がれないですよね。

海の向こうで騒がれたりしないのは今さら当然ですけど。


2018年12月1日土曜日

うわあああああ!!!ゴジラ!!!!!!ラドン!!!!ギドラ!!!!モスラ!!??【東京コミコン2018・ゴジラ情報】








ここんとこの日米ゴジラコンテンツの応酬は特撮ファンにはたまらん流れです。

内閣総辞職ビームや、狙ってないとはいいつつ本当は狙いまくってるBLを入れつつ、いかにも日本人が茶化して楽しみやすいネタを提供しつつ新規顧客層を広げたシンゴジラ。
衝撃の一撃圧殺テールハンマーに体内直撃熱線なるフィニッシュブローを見せつけ、アメリカ的パワフルさをその映像力をもって遺憾なく発揮しつつも出し惜しみが過ぎる上に人間ドラマが平凡過ぎてちょっと叩かれたレジェンダリー・ギャレス版ゴジラ。3Dアニメでなんか作ったらしいバカでかいゴミ。

日米の新生ゴジラのどちらが先進的かといえばギャレス版です。
というのも、初代のプロットだけではなく、バーサスシリーズの積み重ねもきっちり入れているから。 ガメラも参考にしてましたね。カットもそうですが、ゴジラの在り方も。怪獣ジャンルを包括して、前進を試みました。
「ペルム紀の王」という設定はゴジラの神秘性に対して生物性を付与しすぎててどうかという意見もありましたが、シリーズによって『戦争由来の怨念の集合体』だったり、『恐竜の進化体』だったりするんで、むしろただの恐竜の進化体ってよりは偉大な二つ名で俺は大好きです。てかこたびの「巨神(タイタン)」という怪獣総称のセンス好きぃ…。

あ、シンゴジラも悪くないですよ。
でも、新しいものはなにひとつとしてなかったんです。
日本のゴジラは初代以降はわりとおふざけも多く、はっきりいっておちゃらけた部分は多いにありました。風刺の化身だから、お堅い設定は別にいいんです。
けどバーサス以降、何度もゴジラは初代のプロットに戻ろう戻ろうとしてきました。原点の恩恵にあやかろうと、新しいものを見せてこなかった。お遊びが過ぎないように、イメージを崩さないようにと、優等生的に優等生的に……。それがまちがっているのは、ゴジラ対ヘドラが評価されている事実を見ればわかると思います。
シンゴジラも同じことを現代でやっただけです。見るべきものはある、けどグルメとして納得できるかというとそうでもない。好きだけどそこまで好きでもないよ、てとこです。
ただ、日本が生んだゴジラというだけで意味はありますが。ガチガチの堅い頭でジャンル設定にかたっぱしから理屈付けするつまらない優等生がそれをゴミみたいな3Dアニメで塗り固めた想像性皆無のカス団子もあるけど。

海外でシンゴジラことゴジラ・リサージェンスが当たらなかったのは、あれが"日本向け"だからじゃない。
日本的な政治も彼らはよくわかっているし、ゴジラが災いの体現者であり、柔軟な鋳型だと承知している上で――彼らは作劇というものをよくわかっている。ゴジラに関しても勉強をしっかりとしている。日本的価値観にアジャストできるんです。

ではなぜ受け入れられなかったか?
わざわざ入門編…チュートリアルで感心するほど、ゴジラジャンルに対する温故知新を怠っていなかっただけです。

空想世界に没入するにも、月9だの韓流だのTLだのBLだの百合だのとにかく恋愛脳しかなくなってしまった日本人には、ゴジラシリーズを離乳食としてうまく噛み砕いて導入してあげるしかなかった。その努力の結晶がシンゴジラです。日本人向けという意味は、1から導入してあげなきゃわかんないくらい想像力を失った日本人向けって意味でした。


まあいいです。今回はもうこんな湿っぽい話はいいです!



てことで!
てことで!!


公開一週間で1000万PVをブチ抜き、
全世界の怪獣ファンを号泣させたファーストトレイラーからおよそ四ヶ月!

東京コミコンにおいて!!

四大巨神の御身公開せり!!!!





あああああああああああああああああああああ!!!!




ラドンすげええええええええええ!!!
感謝ああああああああ!!!!




ファッ!?!?!?!?!?!?!?!?!!!!!???
こんなん思いつくわけないでしょ普通!?!?!?!?!??!?!?

肉身に女性的なフォルムを与えて、『エロス』の女神、あるいは女王としてこうまでアレンジしてくるとは!!
(ちなみにモスラの造形はこっちのホビーサンプルで見た方がわかりやすいと思います)





嗚呼・・・・・・・・・・・魔王よ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
















まとめてくれてありがとー。



うんうん。



うんうんうん。



ねー、そうなんだよねー。



ホラークリエイターの手腕はジュラシックワールドのバヨナ監督が証明してみせていると思います。
もとよりゴジラをはじめ日本の恐怖描写は大きく怪奇に依り、すなわちホラーでもある。怪奇とは粘つくような妖艶さなくしてはありえないものであり、賛否が出るであろうモスラのデザインなどに私はその強い素養を見た気がしました。



いや…うん…
楽しみ…ほんと楽しみすぎる…

来週新トレーラー公開だそうですね…
この段階からここまで昂ぶってたらもう卒倒しそう…



興奮し過ぎて頭痛くなってきた。

2018年11月29日木曜日

同人誌を原価率で語るな!と主張する同人作家は『読者』を舐めている






校正作業の際にきまってお邪魔する喫茶店があります。
コーヒーは水っぽく、サラダのハムはゴムのよう。
内装は簡素で、寄木細工の床材は洒落ているが、テーブルの間隔のむやみな広さは、
客の少なさも手伝い、閉店間際で損切りをつきつめた空っぽの雑貨屋を思わせる。
「閑静」な恵まれた立地環境を「閑散」と感じさせる、おしなべたセンスの無さ。
感受性の昂ぶりを押さえ、校正段階の加筆欲を相殺してくれる良い店です。

そんなお店の窓際にはいくつかの陶器人形が並んでいます。
私の親指程度しかない小さなその人形たちは、農夫であったり、くまさんであったりと、童話的な風体をもってガラス越しの風景にちょっとしたアクセントを添えてくれる。
「値札」という生活感のアクセントを。

え? これ売り物なの? というのがはじめて見た感想でした。
そう、どの人形の足下からもぴょこっと値札が生えているんです。
実際スタッフセレクトのパワーストーンなどが置いてある店もありますが、どう見てもこの人形は買いたいと思わせるほどのものではない。しかしなるほどよく見みるととぼけた造形に愛嬌を感じなくもない。

これを持ってお会計のときに「この素敵な人形をひとつ」と言えれば洒落ているのでしょうが、ほんとうに素敵なものなら「この人形をゆずっていただけませんか」という言葉が出てきます。値札などなくとも。そもそもなにより別にそこまで素敵じゃない。せいぜいコミュニケーションの手段として買うのはアリですが、商品としてはちょっと……。
値札がついているから、それを商品としてどうかと考えてみましたが、そうでなければ、手にとりさえせず遠くからながめるだけで終わっていたでしょう。













今回のトピックスはこれ。
過去にさかのぼっていちばん痛さがにじみでている人を選びました。
いやあ、いかにもtwitterでバズりそうな話題ですね(グリッドマン以来二度目)。

とはいえ、これはループ話題です。
別に流行のトピックスでもなんでもない。
自費出版者の人たちがいつも自分を慰めるために持ち出す話題ですね。
これに関しては、



これで説明しきれるんですよ。ごめんね。
といっても、たぶん自費出版者の人たちはわかんないと思います。


人が何かを指摘されて苛立つとき、そのときの人間の心理とは、

自分がイメージしている自分とは違うことを言われたから

なんですね。
そこを押さえてさえいれば、事実の指摘は批判でもたやすく通ります。
その上での提言ですが、自費出版者が原価率を引き合いに出されることは妥当な指摘です。プロではなく、アマチュアだからこそ。
その指摘が通らないのは、彼らがイメージしている自分ではないから。
ならここで考えてみましょうか。

受け入れられずに反発している人たち――すなわち、同人活動にプライドを依存している人たちは、自分自身に対してどういうイメージを持っているのか?

それは客観的・一般的な評価とどれくらい差があるものなのか?

そして、その上で、原価率を引き合いに出されることはなぜ妥当なのか?
なにより、なぜこの話題を自費出版者たちはループさせたがるのか。

――それをマックポテトからフェルメールまで持ち出して説明しようと思います。










ところで、原価率で語られるものナンバーワンといえば
マックのポテトやドリンクだと思います。
あきらかに安っぽさがわかるものこそ原価率で語られます。


安かろう悪かろうというのは、
「安物であれば品質は悪いだろう」という普遍的ロジカルシンキングを表した言葉です。
そして、それがロジックであるからこそ、
悪かろう安かろうもあるんです。
「粗末なものは、安物であるべきだろう」というロジカルシンキングです。普遍的な。


つまり……原価だのなんだの考えられている時点で
その程度のモノなんですよ。

他の人と急いで競い合って買うほどでもないから。
なんならエロパロ同人とかなら待てばネットに上がりますし。
どうしても手元に置いておきたいわけでもない。



たとえば200円の饅頭を口にしたとき、
それが美味ければ払う甲斐はあると思うし、
それが不味ければもっと安くてもいいと思います。

どういうことかというと、
「原価と提供技術の乗算でモノの値段が決められている」
というバカにでもわかることをわからないドバカでも、
200円の饅頭に200円の価値があるかどうか判断する能力は総じて持っているんです。


この前提に立ったとき、校閲無しで自分のつくったものを並べてクリエイター宣言している自費出版・自費生産者は気付かないのです。
自分が浸っている環境とは別に、実社会のごく普通の人たちの評価軸も存在し、それは刻々と流れているということに。

すっっっっっごい普遍的な例をあげますね。
立地が良いはずのお食事屋さんでさえどんどん潰れていきます。
でもあえて店を打ち立てるということは料理人であることに誇りもアイデンティティもあるということ。自負があるということ。それがしくじるのが現実社会なんです。
その事実から見えるものは、

クリエイターだからといって、世間一般に評価されるわけじゃないという基本原則。
そしてそういった人間が「それでもクリエイターだ」と自負するのは薄ら寒いという事。

そして…

自分の作品に対してもっともグルメなのは自分ではない。
なによりも、価値を決めるのは無関係な他人である。

ということです。










ここからが本題です。
では、なぜ自費創作活動家は等身大の自分に気付くことができないのか。
自分たちは好きでやっているだけなのに、なぜバカにされるのか😭😭。
なぜこうしてたびたび恥をさらして、あざ笑われるのか。





あえてここまで表現を外してきましたが、
同人作家というのはリップヴァンウィンクルのようなものです。

森の中に迷い込んだ男リップヴァンウィンクルが、見知らぬ人々と酒宴を過ごし、心地良い眠りに浸ってしまう。目が覚めるとアメリカはイギリスから独立し、伴侶はこの世を去り、子どもは結婚して新しい家庭をつくっていた。
男が心地良い酒宴と夢にひたっている間に、現実はどんどん進行し、置いていかれてしまったということですね。つまりこれはハリウッド版浦島太郎の物語です。最近はこちらで例える人が多いのでそれに乗っかってみました。リップヴァン~の響きが洒落てるからですかね?




同人活動というのは、オリジナルか二次創作に関わらず、表現弱者が行うものです。
グリッドマンの記事においては、"ネットでだれもが表現できる時代、表現できないことは傷つくこと"だといいました。それはコンテンツにも及び、"一方的に作品を与えられることは苦しくてたまらない"とも。

全方位に喧嘩腰: グリッドマンのヒロイン抱き枕は結局、アニメや女性をナメているのか否か業界人が答えてみた。

ただしこの同人という文化時代は昔からありました。
ネットというのは、いわば『表現の技術』です。ネットという技術の発達によって、レスや動画や画像や音声や放送などの配信・投稿を行えるようになりました。

技術があるから、表現できるようになったから、
表現者でいられないと傷つくんです。

ネットがない時代にも、「表現者でいられないと傷つく」技術保持者がいました。
その技術とは、たとえば「物書きやお絵描きの技法」です。

表現の技術――その技法を持ちえながら表現できないのは辛いこと。
そんな彼らが集まって傷を慰めあいはじめたのがいわゆる同人文化です。もちろんこういったものは世界中にありますね。
規模が大きければ大きいほどいやされる、友達同士の見せ合いっこではいつまでもは我慢できないわけです。
そこで本当の発信者になれる人は、公に挑戦します。できない人、あるいはくじけた人――もしくは、なめあいに心地良くなりすぎた人が同人に居座り続けます。

そうしてお互いを表現者として仮定するところから始まる
申し合わせ済みのゲームがいわゆる同人文化というものです。


でも、お互いにわかってるはずですよね?
それらの作品がたいしたことないお遊びレベルだって。
ふだんから「公式」を見て、プロの作品群に触れてるんですから。
あまり素人モノばっかり触れてるとマジで見る目なくなりますけどね。

この件に関しては二次創作だろうとエロパロなんだろうと関係ありません。
二次創作というものは表現弱者(性的弱者)と創作弱者の関係とはいいましたが、デッドコピーのポルノに狂う性的弱者でさえ、原作とまがいものの見分けくらいつくわけです。まがいものだとわかっていても、オカズが欲しいと考えているわけで、それを本物だと勘違いしているわけじゃありません。


しかしそのルール上のお遊びにあまり浸りすぎると、
クリエイターというものが"表現"によって評価される生業という前提を忘れさせます。

ここで重要なのは
表現技術ではないということ。
労力でさえないということ。

表現なんです。




ちなみに私、趣味でゆっくり解説動画を投稿しているんですが、
月50万稼げるんですよ。趣味で。お仕事とは関係ないところで。
オープニングだって作らないしキャラだって作りませんよ(だいたい東方知らない)。
これ、原価としてはどう思います? 電気代以外なーーんにもない。
時間だって合間を見て作るだけなので負担はありません。

よく「同人は稼げるなんて勘違いやめろ」とか
「実際稼げるからね…」自費出版者たちがいろいろな形で自己肯定していますが、

ごめんね、いまの時代そんな嫉妬してる人はごく少数だよ。
自費出版の人たちはその観点で叩かれてると思いたいでしょうがもう無いです。
動画上げれば稼げる時代ですから。


いじめられるタイプの痛い子だからことあるごとに
白い目で見られてるだけですよ。
自由帳に漫画書いて俺は作家だ!クリエイターだ!って
教室でわめいてる子いたら…ねぇ? だってクラスのみんなはちゃんとプロの作品をたくさん読んでるんだから。質の高いものばかり触れてるんだから。


それでもそこで、同人の場で生き様を刻みたい、ということは、

どうしても作家でいたいよ、
クリエイターでいたいよ…😭😭😭

っていう人が、同人というミソつきでも「作家」という肩書きが欲しいんです。

やっぱりお金がもらえないとモチベーション上がらないとかありますけど……。

自然にできないのを無理してるってことじゃん(笑)








ちなみにこういう形で自己主張するのは主に絵描きかコスプレイヤーだと思います。
例えば絵描きは常に企画下のブルーカラー。かりにプロとして報酬をもらうことがあっても、買い切りされるばかりで自分主導でモノを作れない人たちですね。
いや、使ってあげる側だからそれくらいのことはわかってますよ。


そして、そんなビジュアルデザイン分野の人たちは
横社会で褒め合ってその日をやりすごしています。それは古今からかわりません。

日本人みんな大好きフェルメールのレベルでさえそうです。
物語画家になりたかった彼はしかしそれを諦め、
民衆の生活を描くことで日銭を稼ぐようになりました。
彼の描きたい物語絵画とは神話や聖書の模倣であって、
それはもっと公に認められた人間がやるべきものとされていたから。もはや席はなかったから。
だから彼は、即物的に庶民の要求に合わせて風俗絵画を書き続け、そのうち画家の生涯を終えました。ときおり、天使の影を愛のモチーフとして入れるような涙ぐましい主張を続けながら。
そうして彼の死語、彼の画風の変遷が一つの物語として変容し、一連の作品群として評価されるにあたりました。(晩年の描き込みの減少は作者の諦念を感じさせ実際胸にくるものがあります)


ここからわかることは――
絵という表現は絵描きが思っているほど価値はない
ということです。

具体的にはどういうことかというと、代わりがきくってことです
自分たちののぞむものを書いてくれるならだれでもいい。

逆にモデルのある表現だから、
自分だけのものなんて描こうと思っても描き出せないんですよ。
それが「絵」である以上。

方向性が同じ以上、細部にしか違いは出ないものですから。
そして細部にだけ魂が宿るなんてことはない。そうであって欲しいと願っても。
見る人は「間違い探し」を楽しみたいわけじゃない、ガキじゃあるまいし。
キュビズムでさえ、被写体をカットアップすることでなんとか新しい視点を探そうとした。そこまでしてもゼロから新しいものを生み出せないものなんです。

死ねば評価されるのは、「その人間の一生」に価値があり、
絵はバロメーターであって、それ単体の価値ではないんです。

魂が宿るほどの造形というものは、絵ではありませんが『太陽の塔』クラスです。
もちろんそんな人はルールに従えば優しくしてくれる同人の世界なんかにおさまりません。

そして、
フェルメールが直面した物語画家の例のように、
公に近い人間の絵ほど価値があり、
公から遠ざかる人間の絵ほど価値がないんです。



しかし、それで詰むわけではない。
民衆の「こうあってほしい」「こうであったらいいな」「こんなものを見たいな」
という風俗を具現化することで彼らはなんとか生きながらえることができます。

ときに同人とは――特に二次創作とは――この作品のキャラをこんなふうに描いてくれればいいのにと高望みする『表現弱者』の願望をなんとか具現化することで弱者同士の互助会が成立しているということはグリッドマンの記事でも語りました。



つまり、
ひいき目なしで見たとき、
絵って大したことないんです。
コスプレだっておんなじですね。




しかしそうは思わない例外的な人種がいる。
その大したことないものを仕上げるために注ぎ込んだ技量と労力を理解してくれる人が。

そう、同じ絵描きです。
大したことのないものを認めてくれるのはいつだって同業者です。

ビジュアルデザインの人たちが横社会で褒め合ってプライドを維持している、
というのはこういうことなんですね。

例として挙げるならば、記憶から薄れつつある「五輪エンブレム事件」
あのとき、なぜあの程度のものが選ばれたのか、私にはすぐ察しがつきました。


パクリを褒めるような人間は同業者しかいない。
視野の狭い、デザイン業界の横社会でしかありえない見る目の無さだ。

つまり、選考委員にデザイナーの関係者がいるはずだ。

現にそのとおりでした。

五輪という公の場にあってさえ、横社会の褒めあいをもってきて世間の価値観を理解できないのがグラフィッカーの業です。

だってだって、みんな苦労をねぎらって評価してくれないんだからしかたないよね?
つらいもんね? くるしいもんね? むねがきゅーってなるもんね?



ちなみにいわゆる私が接してきた絵描きの業務で唯一尊敬に値するのは「背景」です。あれは労力と技術力がかみ合わないとできないことなので。もちろんレベル次第ですが、私が見てきたものは一月かけて完成させるような芸術品ばかりでした。しかしそれ以外は代わりがきくのは事実です。


いつだったかクッパ姫の件でも、
「これに乗れないならクリエイターとして注目されないからダメだ」
ってワンピースの作者に言ってる人いましたよね。

あれってねー、実は使われる側の発想なんですよね(笑)
原作家の発想じゃない。上り詰めても代わりのきくブルーカラーが限界の人が作家に言うことじゃない。あれが絵描きの発想ですね。根本的に違う。あのときのっかったあきまんとかも結局有名なペンキ職人であって何かを牽引できる人じゃあないんですよ。





さて、絵描きは絵描きといなければ辛い思いをする。
自分が思っているほどに自分の表現には価値がないから。
たとえば絵師同士のトラブルが多いのもそれですよ。くっつきたくてしょうがないから、神絵師と呼ばれる界隈では有名な人にくっつきたくてしかたないんです。
そうして絵描き同士でくっついて心を温め合う、そのまま彼らは世間から乖離する。

なら絵描きとだけいればいい。とはいかない。
だって、それじゃクリエイターでいられない😭😭

SNSで上げているだけでは作家ではない。
ああ、でもあの先輩は作家と呼ばれている。
あの人のようになりたい――!



そう思って、公に選ばれない絵描きが集まるのはどこか?

――そう、同人界隈です。

今回はやっぱ絵描き勢の必死の自己欺瞞が目立ったので例に挙げましたが、
これはあらゆるルートで説明できます。



あらゆる作品の買い手の99%は素人です。
クリエイターとはそういう相手との勝負です。

しかし同人界隈では違います。

まがいものだとわかっているけど、買いに来てくれる同胞たち。
そして、自分の苦労を理解してくれる先輩たち。
彼らが客を演じてくれています。

これってつまり、
学校の文化祭の出店
とおんなじわけです。


がんばってるねーと努力をほめてくれる先輩。

多少出来が悪くても笑いに変えてくれる友人。

めっっっっちゃ微笑ましいやん!!!























待って。ちょっとアレ見てよ。
文化祭の出店なのに売り子が真顔で
クリエイターの労力をバカにするな
とか言ってんだけど(笑)













しかしこう考える気持ちもわかります。
一般的な市場とは乖離しているとはいえ、とらのあななどが
ノーリスクで自費出版者をかつぎあげる利鞘の良い業務などを始めて、
仮にでもなんでも特定市場で作家として振る舞えるような環境を作ったこと。
そう勘違いせずにはいられないような環境があることはまちがいないんです。


でもね、視野が狭いの。
やっぱりどこまでいっても文化祭のペラい同人誌とかわらないの。
いくら見た目をとりつくろっても、大目に見られていることはまちがいない。

ここで重要なのは、同人における作家は「ごっこ」です。
しかし読者はそうとは限らない。作家にとって他人であればあるほど慧眼のある相手です。
だって、彼らはプロが相手している連中と変わらないんだもん。


それでも趣味でやっているのなら何も問題ないんです。
自分の作品が取るに足らない、愚にも付かない、それでも好きでやってると思えるなら。
好きでやってるんだからいいんだよ!と言えるなら立派なアマチュアです。

けれど自分を作家性のあるクリエイターだと定義したときにおかしくなる。
真っ白な本に描いた俺の作品には価値がある(笑)とか言い出したらおかしくなるんです。
Banksyのようなリターン度外視の「表現者」とも違い、金銭の評価を求めている。

著作権だの転売だの原価だの、
一般社会――すなわち公の価値基準を持ち出したとき、
そのとき彼らの至らなさと勉強不足、なにより覚悟の欠如に直面するのです。

性的弱者がエロパロに浸るのは、見る目がないからだとグリッドマンの記事でいいました。満たされない性に目が曇っている。しかし彼らとて真贋を見極める目はある。
コミケでまがいものを好んで買い漁るような表現弱者でさえ、それが公で戦えるような商品かどうかの見分けはつくわけです。オリジナルだろうがなんだろうが。

同人とはお互いに申し合わせ済のゲームです。
自分たちの活動はライフワークだと予防線を張りながら、
なんちゃって市場のクリエイターごっこをしています。
それは作品の発表の場ではなく、コミュニケーションに近い。
だから、できるかぎり衝突を避けるように市場と同じように苛烈な評価はしない。優しい優しいやりとりを約束された作家ごっこ遊び……。

しかし、商品に値札をつけた以上はそれを軸に商品として判断される矛盾がある。
そして、なにより同人というゲームプレイヤーでしかないのに
自分を作家だと定義してしまった彼らが
身の程も知らずに自分にクリエイターの札をつけてしまったとき、

こんなものに値段上乗せしちゃって恥ずかしくないのw

とごっこ遊びに乗らなかった人の自然な反応にヒステリーを起こすんです。
それは決まり切った慰め合いの粘膜の裏側に常に潜んでいる実社会の評価軸。
それに触れたとき、自分が本物のクリエイターだと思っている人間が起こすのはヒステリーです。うるせえ、好きでやってるんだからいいんだよと消化できないんです。


もちろん、文化祭に遊びに来てくれた友達は一緒に怒ってくれるでしょうが、
友達だから怒ってくれているわけです。作品が原価を語れるレベルだからじゃない。
でもそれにすがりついてしまう。

バカ同士で信仰を共有すればいつかそれが真実になると信じている――。

前の記事で語った韓国人の特性ですが、まるでそれとよく似ています。
全方位に喧嘩腰: 〈BTS原爆Tシャツ事件〉から見る日本人の"韓国人化"のヤバさ
実際、この記事で私は韓国人を同人作家にちょうどなぞらえていました。



"表現"の力でしか評価されない作品を原価率で語られる、というのは
まさにごっこ遊びの最中にガチの一般的感覚の『読者』が提示する現実の評価軸に触れてしまった瞬間なんです。空気が読めないってのは実際そうかもしんないですが(笑)
ともあれ、原価を語ったのがどんな目的であれ、作者を前にしても大事に扱ってやるような作品ではないと思われたのは事実であって、実際にたいした出来ではないのはまちがいないんです。








私はいじめの記事で、
集団に属したとき、その基準から外れることでいじめは発生するといいました。

全方位に喧嘩腰: 八王子の中2いじめ自殺が、またいつもの「泣けるいじめコンテンツ」に変わっていくのを止めたい


彼ら、愚にもつかないものでごっこ遊びをする自費創作者は、
同人というごっこ遊び集団のルールを守れば彼らの仲間でいられます。

しかし世間一般のクリエイターという評価軸に属そうとしたとき、
その基準の判断者である読者は容赦なく判断してきます。それは、不特定多数の洗礼と市場主義によって洗練された作品を基準としてモノを見る人たちです。

背伸びしてクリエイターという集団に属そうとしたとき、彼らの能力も気位もあまりに低い。

彼らが底辺だから、クリエイターの基準に満たないから、
馬鹿にされていじめられてるだけです。





学園祭の売り子なら相手してもらえても、
クリエイターとしてはてんでお話にならないから。
それに怒るようなら、同人に戻ればいい。

でも彼らはできないんです。原価率で語るな、原価率で語るな、自分の作品はそんなものじゃない、同人はもっと尊く扱われるべきだとだから叫ばずにはいられない。何度も何度も仮想敵を持ち出して、優しい他人しか受け入れたくなくて。

でもね、理想の他人を設定しなければ行動できない典型的な日本人――クリエイティブにもそれを求めるような平凡な人はクリエイターを名乗ることさえ向いてないですよ。




たとえば、コミケは文化といいつつもコンビニバイトと変わらないわけです。
接客業の底辺です。
「ブランド店」まではいかないにしろ、それが「書店」や「塾」になるだけで相手にする客層がまるで違ってくるのは感じられます。
私の稼業の一つであるアドバイザーでも、相手にする団体のランクによってまるで受ける印象は変わってきます。もちろんお話しするときの食事のランクも(笑)

コンビニは誰でも来るから、ゴミのような民度のやつが来るんです。
実際コンビニで日用雑貨品を買うってちょっと底辺率高めなとこあるじゃないですか。

つまり、ゴミのような客と出会うのは、あなたがゴミ溜めでしか活動できないレベルだから。クリエイターを名乗れる場所が、同人団地やSNSしかない底辺だから。

これ言っちゃ身も蓋もないんですが、
自分で金出さなきゃ作品出せない時点で無理してんですよ。

打ち切り漫画を持ち出しで形にしている作家さんとかもいますよね。無理してるんです。

同人作家(笑)を名乗る人たちのやりたいことは世間的には大したことのないもので、技術も労力も足りないんですよ。そしてなにより値札をつけているくせに出来が悪い。


同人というごっこ遊びのルールに乗らない人が見れば、
悪かろう安かろうは当然です。

例外は公式コンテンツの「お疲れさま本」くらいですかねぇ……



好きなように売るっていうことは、好きなように買われるっていうこと。
頭が悪くてもせめてそれくらいわかっておきなと言ってあげましょう。
背伸びして粋がってないで、趣味としてリラックスして楽しみなって。
なによりも常にプロを相手にしている読者の方から。
あなたたちの方が物が見えているはずですよ。














[オマケ]

そういえば
「同人誌の転売は是か非か」
って話も同じタイミングででてきてましたね。
一応それにも言及しときますか。
是でしょ。絶対的に是。

だれかがフリマで売ったセーターがメルカリで転売されたとします。
そりゃ売った人からすりゃイラッとくるかもしれませんけど、
同人誌ってそのセーターとかわんないですよ?
手編みかどうか知ったこっちゃないです。

著作権なんて、この記事にさえ発生する効力と変わらないです。
どうこうしようったって法廷コントにさえ持ち込めないですよ。

そもそも法律の話を持ち出すと二次創作はお話しにならない路傍のゴミで、
(というか著作の権利を主張すると、今度は責任と義務が発生するので逆効果です)
一次創作だってなんら法律の庇護対象としては強みなんてなにひとつないんですよ。

ネット上の法律解釈に関しておまぬけの度が過ぎるのは、
バイトは本来業務の補助的役割でなくてはいけない
とかいう底辺思考が一時バズった件とかでわかりますよね。
そこで理論武装しようってのは無理なんで、諦めた方がいいです。
同じレベルのバカしか騙せません。



さっきも言いましたが、
好きに売りたい相手に対しては、好きに買うのも自由。
そして買ったものをどうしようと自由。


同人グッズなんていくらでも転売してもいいし、
原価を理由に値引きしてもいい。ネットに上げるのさえぜんぜんOK!(笑)


これは仕方ないんですよ。

市場のルールにものっとらずにアマチュアでやる。
趣味として楽にクリエイター気分を味わいたいからやってることです。
作り手がルールの押し付けていけるように、客だって今度は同じになるわけですよ。

その人が商業経験があろうがなんだろうが同じことです、
コミケに物出してるほど暇なやつってことには実際変わりないですから。




同人なんて、創作弱者同士の世界ですから、舐められて当然。
クリエイターごっこのフリーマーケットである同人界隈において、客の側も評論という形で表現者を気取っているわけです。表現しなければ傷つく世の中で、あるいは評論さえ表現の一つでありますから。底辺レベルの表現で茶を濁して満足したいのは売り手も書い手もおんなじなんですよ。みーんな、同類、同類。作品出したからって上に立てるような環境ではないんですよ。


いずれにせよ、
趣味だろうとごっこ遊びなんだろうと客を求める以上、
お前ひとりで決められることじゃないよね。
っていうことなので。


もちろん、彼らが
ゴミ出しできてえらいね
ってほめられたいのはわかります。
だけど、そうなると今度は乞食がゴミ漁りに来るわけです。
本物を出せない以上、つきものです。
だから、たまにはもうちょっと落ち着いて身の程を見直すのもいいんじゃないですかね。
妄想と現実の摩擦でヒステリーが起きるのは世の常です。不健康ですよ。


好きなことをつらぬきたいなら、値札なんてつけません。
売れるように題材や描くものを選ぶわけだ。バンクシーとは違う。
それをつける以上、やはりやりたいのは作家ごっこなんです。

だから本来は同人作家ではなく、作家同人活動者なんです。
そういえば作家ごっこだと自分を戒められる。

もっと正確にいうならただの自費出版者・自費制作者にすぎない。
それをフリマで売ってる人だと考えればもっと楽だ。
素人AVとかも含めてそーゆーことなんです、一般的には。







「同人誌の作り方」的ムックも出てるあたり、
ある意味歌い手やゲーム実況者的な誰でもできそうブームを迎えつつあるのは感じます。

しかし、公に認められない程度の表現を売ろうというとき、
同業者とばかり傷をなめ合っているとそのぶん現実と向き合ったときの反動は来ます。

森の中で見る夢は、現実にはなりません。
いまさら浸っている人はどうあがいても抜け出せないでしょう。
ガルパンの公式四コマに選ばれながらも、まともな仕事ができずに底辺に戻るしかなかった人もいますね。



それはそれで身の丈に合った生き方というものだと思います。
できないものはできないんです。能力がないんだから。

しかし忘れてはいけないのは、
この上の例のように同人界隈は森の中の夢に過ぎない。
現実はどんどん遠ざかっていくものなんです。

本来、書籍は原価率で語るもの。
自費出版者がそれに対してヒステリーが起こすのは、
ふだんからそこに描かれた表現にお情けでほめてもらっているから。
がんばったぶんだけ褒められるという小学校並の価値基準があるところだから。
なによりそれが本当のクリエイターの証明だと彼らが信じてしまっているから。

真っ白なじゆうちょうの落書きを
仲の良いクラスメイトだけがすごいすごいと
褒めてくれている程度に過ぎないというのに。

無能ががんばっただけでは技術料なんて発生しない
ということを忘れてしまっているから。


そういう面もたまには意識してみると、
あるいは彼らの心の安定になるかもしれないのにな、と思いました。








[閑話]
次は『スクエニの現状について』の記事を書くつもりなんですが、
知り合いにスクエニのスタッフが一人もいないのでちょっとどうしようか迷ってます。