2018年11月29日木曜日

同人誌を原価率で語るな!と主張する同人作家は『読者』を舐めている






校正作業の際にきまってお邪魔する喫茶店があります。
コーヒーは水っぽく、サラダのハムはゴムのよう。
内装は簡素で、寄木細工の床材は洒落ているが、テーブルの間隔のむやみな広さは、
客の少なさも手伝い、閉店間際で損切りをつきつめた空っぽの雑貨屋を思わせる。
「閑静」な恵まれた立地環境を「閑散」と感じさせる、おしなべたセンスの無さ。
感受性の昂ぶりを押さえ、校正段階の加筆欲を相殺してくれる良い店です。

そんなお店の窓際にはいくつかの陶器人形が並んでいます。
私の親指程度しかない小さなその人形たちは、農夫であったり、くまさんであったりと、童話的な風体をもってガラス越しの風景にちょっとしたアクセントを添えてくれる。
「値札」という生活感のアクセントを。

え? これ売り物なの? というのがはじめて見た感想でした。
そう、どの人形の足下からもぴょこっと値札が生えているんです。
実際スタッフセレクトのパワーストーンなどが置いてある店もありますが、どう見てもこの人形は買いたいと思わせるほどのものではない。しかしなるほどよく見みるととぼけた造形に愛嬌を感じなくもない。

これを持ってお会計のときに「この素敵な人形をひとつ」と言えれば洒落ているのでしょうが、ほんとうに素敵なものなら「この人形をゆずっていただけませんか」という言葉が出てきます。値札などなくとも。そもそもなにより別にそこまで素敵じゃない。せいぜいコミュニケーションの手段として買うのはアリですが、商品としてはちょっと……。
値札がついているから、それを商品としてどうかと考えてみましたが、そうでなければ、手にとりさえせず遠くからながめるだけで終わっていたでしょう。













今回のトピックスはこれ。
過去にさかのぼっていちばん痛さがにじみでている人を選びました。
いやあ、いかにもtwitterでバズりそうな話題ですね(グリッドマン以来二度目)。

とはいえ、これはループ話題です。
別に流行のトピックスでもなんでもない。
自費出版者の人たちがいつも自分を慰めるために持ち出す話題ですね。
これに関しては、



これで説明しきれるんですよ。ごめんね。
といっても、たぶん自費出版者の人たちはわかんないと思います。


人が何かを指摘されて苛立つとき、そのときの人間の心理とは、

自分がイメージしている自分とは違うことを言われたから

なんですね。
そこを押さえてさえいれば、事実の指摘は批判でもたやすく通ります。
その上での提言ですが、自費出版者が原価率を引き合いに出されることは妥当な指摘です。プロではなく、アマチュアだからこそ。
その指摘が通らないのは、彼らがイメージしている自分ではないから。
ならここで考えてみましょうか。

受け入れられずに反発している人たち――すなわち、同人活動にプライドを依存している人たちは、自分自身に対してどういうイメージを持っているのか?

それは客観的・一般的な評価とどれくらい差があるものなのか?

そして、その上で、原価率を引き合いに出されることはなぜ妥当なのか?
なにより、なぜこの話題を自費出版者たちはループさせたがるのか。

――それをマックポテトからフェルメールまで持ち出して説明しようと思います。










ところで、原価率で語られるものナンバーワンといえば
マックのポテトやドリンクだと思います。
あきらかに安っぽさがわかるものこそ原価率で語られます。


安かろう悪かろうというのは、
「安物であれば品質は悪いだろう」という普遍的ロジカルシンキングを表した言葉です。
そして、それがロジックであるからこそ、
悪かろう安かろうもあるんです。
「粗末なものは、安物であるべきだろう」というロジカルシンキングです。普遍的な。


つまり……原価だのなんだの考えられている時点で
その程度のモノなんですよ。

他の人と急いで競い合って買うほどでもないから。
なんならエロパロ同人とかなら待てばネットに上がりますし。
どうしても手元に置いておきたいわけでもない。



たとえば200円の饅頭を口にしたとき、
それが美味ければ払う甲斐はあると思うし、
それが不味ければもっと安くてもいいと思います。

どういうことかというと、
「原価と提供技術の乗算でモノの値段が決められている」
というバカにでもわかることをわからないドバカでも、
200円の饅頭に200円の価値があるかどうか判断する能力は総じて持っているんです。


この前提に立ったとき、校閲無しで自分のつくったものを並べてクリエイター宣言している自費出版・自費生産者は気付かないのです。
自分が浸っている環境とは別に、実社会のごく普通の人たちの評価軸も存在し、それは刻々と流れているということに。

すっっっっっごい普遍的な例をあげますね。
立地が良いはずのお食事屋さんでさえどんどん潰れていきます。
でもあえて店を打ち立てるということは料理人であることに誇りもアイデンティティもあるということ。自負があるということ。それがしくじるのが現実社会なんです。
その事実から見えるものは、

クリエイターだからといって、世間一般に評価されるわけじゃないという基本原則。
そしてそういった人間が「それでもクリエイターだ」と自負するのは薄ら寒いという事。

そして…

自分の作品に対してもっともグルメなのは自分ではない。
なによりも、価値を決めるのは無関係な他人である。

ということです。










ここからが本題です。
では、なぜ自費創作活動家は等身大の自分に気付くことができないのか。
自分たちは好きでやっているだけなのに、なぜバカにされるのか😭😭。
なぜこうしてたびたび恥をさらして、あざ笑われるのか。





あえてここまで表現を外してきましたが、
同人作家というのはリップヴァンウィンクルのようなものです。

森の中に迷い込んだ男リップヴァンウィンクルが、見知らぬ人々と酒宴を過ごし、心地良い眠りに浸ってしまう。目が覚めるとアメリカはイギリスから独立し、伴侶はこの世を去り、子どもは結婚して新しい家庭をつくっていた。
男が心地良い酒宴と夢にひたっている間に、現実はどんどん進行し、置いていかれてしまったということですね。つまりこれはハリウッド版浦島太郎の物語です。最近はこちらで例える人が多いのでそれに乗っかってみました。リップヴァン~の響きが洒落てるからですかね?




同人活動というのは、オリジナルか二次創作に関わらず、表現弱者が行うものです。
グリッドマンの記事においては、"ネットでだれもが表現できる時代、表現できないことは傷つくこと"だといいました。それはコンテンツにも及び、"一方的に作品を与えられることは苦しくてたまらない"とも。

全方位に喧嘩腰: グリッドマンのヒロイン抱き枕は結局、アニメや女性をナメているのか否か業界人が答えてみた。

ただしこの同人という文化時代は昔からありました。
ネットというのは、いわば『表現の技術』です。ネットという技術の発達によって、レスや動画や画像や音声や放送などの配信・投稿を行えるようになりました。

技術があるから、表現できるようになったから、
表現者でいられないと傷つくんです。

ネットがない時代にも、「表現者でいられないと傷つく」技術保持者がいました。
その技術とは、たとえば「物書きやお絵描きの技法」です。

表現の技術――その技法を持ちえながら表現できないのは辛いこと。
そんな彼らが集まって傷を慰めあいはじめたのがいわゆる同人文化です。もちろんこういったものは世界中にありますね。
規模が大きければ大きいほどいやされる、友達同士の見せ合いっこではいつまでもは我慢できないわけです。
そこで本当の発信者になれる人は、公に挑戦します。できない人、あるいはくじけた人――もしくは、なめあいに心地良くなりすぎた人が同人に居座り続けます。

そうしてお互いを表現者として仮定するところから始まる
申し合わせ済みのゲームがいわゆる同人文化というものです。


でも、お互いにわかってるはずですよね?
それらの作品がたいしたことないお遊びレベルだって。
ふだんから「公式」を見て、プロの作品群に触れてるんですから。
あまり素人モノばっかり触れてるとマジで見る目なくなりますけどね。

この件に関しては二次創作だろうとエロパロなんだろうと関係ありません。
二次創作というものは表現弱者(性的弱者)と創作弱者の関係とはいいましたが、デッドコピーのポルノに狂う性的弱者でさえ、原作とまがいものの見分けくらいつくわけです。まがいものだとわかっていても、オカズが欲しいと考えているわけで、それを本物だと勘違いしているわけじゃありません。


しかしそのルール上のお遊びにあまり浸りすぎると、
クリエイターというものが"表現"によって評価される生業という前提を忘れさせます。

ここで重要なのは
表現技術ではないということ。
労力でさえないということ。

表現なんです。




ちなみに私、趣味でゆっくり解説動画を投稿しているんですが、
月50万稼げるんですよ。趣味で。お仕事とは関係ないところで。
オープニングだって作らないしキャラだって作りませんよ(だいたい東方知らない)。
これ、原価としてはどう思います? 電気代以外なーーんにもない。
時間だって合間を見て作るだけなので負担はありません。

よく「同人は稼げるなんて勘違いやめろ」とか
「実際稼げるからね…」自費出版者たちがいろいろな形で自己肯定していますが、

ごめんね、いまの時代そんな嫉妬してる人はごく少数だよ。
自費出版の人たちはその観点で叩かれてると思いたいでしょうがもう無いです。
動画上げれば稼げる時代ですから。


いじめられるタイプの痛い子だからことあるごとに
白い目で見られてるだけですよ。
自由帳に漫画書いて俺は作家だ!クリエイターだ!って
教室でわめいてる子いたら…ねぇ? だってクラスのみんなはちゃんとプロの作品をたくさん読んでるんだから。質の高いものばかり触れてるんだから。


それでもそこで、同人の場で生き様を刻みたい、ということは、

どうしても作家でいたいよ、
クリエイターでいたいよ…😭😭😭

っていう人が、同人というミソつきでも「作家」という肩書きが欲しいんです。

やっぱりお金がもらえないとモチベーション上がらないとかありますけど……。

自然にできないのを無理してるってことじゃん(笑)








ちなみにこういう形で自己主張するのは主に絵描きかコスプレイヤーだと思います。
例えば絵描きは常に企画下のブルーカラー。かりにプロとして報酬をもらうことがあっても、買い切りされるばかりで自分主導でモノを作れない人たちですね。
いや、使ってあげる側だからそれくらいのことはわかってますよ。


そして、そんなビジュアルデザイン分野の人たちは
横社会で褒め合ってその日をやりすごしています。それは古今からかわりません。

日本人みんな大好きフェルメールのレベルでさえそうです。
物語画家になりたかった彼はしかしそれを諦め、
民衆の生活を描くことで日銭を稼ぐようになりました。
彼の描きたい物語絵画とは神話や聖書の模倣であって、
それはもっと公に認められた人間がやるべきものとされていたから。もはや席はなかったから。
だから彼は、即物的に庶民の要求に合わせて風俗絵画を書き続け、そのうち画家の生涯を終えました。ときおり、天使の影を愛のモチーフとして入れるような涙ぐましい主張を続けながら。
そうして彼の死語、彼の画風の変遷が一つの物語として変容し、一連の作品群として評価されるにあたりました。(晩年の描き込みの減少は作者の諦念を感じさせ実際胸にくるものがあります)


ここからわかることは――
絵という表現は絵描きが思っているほど価値はない
ということです。

具体的にはどういうことかというと、代わりがきくってことです
自分たちののぞむものを書いてくれるならだれでもいい。

逆にモデルのある表現だから、
自分だけのものなんて描こうと思っても描き出せないんですよ。
それが「絵」である以上。

方向性が同じ以上、細部にしか違いは出ないものですから。
そして細部にだけ魂が宿るなんてことはない。そうであって欲しいと願っても。
見る人は「間違い探し」を楽しみたいわけじゃない、ガキじゃあるまいし。
キュビズムでさえ、被写体をカットアップすることでなんとか新しい視点を探そうとした。そこまでしてもゼロから新しいものを生み出せないものなんです。

死ねば評価されるのは、「その人間の一生」に価値があり、
絵はバロメーターであって、それ単体の価値ではないんです。

魂が宿るほどの造形というものは、絵ではありませんが『太陽の塔』クラスです。
もちろんそんな人はルールに従えば優しくしてくれる同人の世界なんかにおさまりません。

そして、
フェルメールが直面した物語画家の例のように、
公に近い人間の絵ほど価値があり、
公から遠ざかる人間の絵ほど価値がないんです。



しかし、それで詰むわけではない。
民衆の「こうあってほしい」「こうであったらいいな」「こんなものを見たいな」
という風俗を具現化することで彼らはなんとか生きながらえることができます。

ときに同人とは――特に二次創作とは――この作品のキャラをこんなふうに描いてくれればいいのにと高望みする『表現弱者』の願望をなんとか具現化することで弱者同士の互助会が成立しているということはグリッドマンの記事でも語りました。



つまり、
ひいき目なしで見たとき、
絵って大したことないんです。
コスプレだっておんなじですね。




しかしそうは思わない例外的な人種がいる。
その大したことないものを仕上げるために注ぎ込んだ技量と労力を理解してくれる人が。

そう、同じ絵描きです。
大したことのないものを認めてくれるのはいつだって同業者です。

ビジュアルデザインの人たちが横社会で褒め合ってプライドを維持している、
というのはこういうことなんですね。

例として挙げるならば、記憶から薄れつつある「五輪エンブレム事件」
あのとき、なぜあの程度のものが選ばれたのか、私にはすぐ察しがつきました。


パクリを褒めるような人間は同業者しかいない。
視野の狭い、デザイン業界の横社会でしかありえない見る目の無さだ。

つまり、選考委員にデザイナーの関係者がいるはずだ。

現にそのとおりでした。

五輪という公の場にあってさえ、横社会の褒めあいをもってきて世間の価値観を理解できないのがグラフィッカーの業です。

だってだって、みんな苦労をねぎらって評価してくれないんだからしかたないよね?
つらいもんね? くるしいもんね? むねがきゅーってなるもんね?



ちなみにいわゆる私が接してきた絵描きの業務で唯一尊敬に値するのは「背景」です。あれは労力と技術力がかみ合わないとできないことなので。もちろんレベル次第ですが、私が見てきたものは一月かけて完成させるような芸術品ばかりでした。しかしそれ以外は代わりがきくのは事実です。


いつだったかクッパ姫の件でも、
「これに乗れないならクリエイターとして注目されないからダメだ」
ってワンピースの作者に言ってる人いましたよね。

あれってねー、実は使われる側の発想なんですよね(笑)
原作家の発想じゃない。上り詰めても代わりのきくブルーカラーが限界の人が作家に言うことじゃない。あれが絵描きの発想ですね。根本的に違う。あのときのっかったあきまんとかも結局有名なペンキ職人であって何かを牽引できる人じゃあないんですよ。





さて、絵描きは絵描きといなければ辛い思いをする。
自分が思っているほどに自分の表現には価値がないから。
たとえば絵師同士のトラブルが多いのもそれですよ。くっつきたくてしょうがないから、神絵師と呼ばれる界隈では有名な人にくっつきたくてしかたないんです。
そうして絵描き同士でくっついて心を温め合う、そのまま彼らは世間から乖離する。

なら絵描きとだけいればいい。とはいかない。
だって、それじゃクリエイターでいられない😭😭

SNSで上げているだけでは作家ではない。
ああ、でもあの先輩は作家と呼ばれている。
あの人のようになりたい――!



そう思って、公に選ばれない絵描きが集まるのはどこか?

――そう、同人界隈です。

今回はやっぱ絵描き勢の必死の自己欺瞞が目立ったので例に挙げましたが、
これはあらゆるルートで説明できます。



あらゆる作品の買い手の99%は素人です。
クリエイターとはそういう相手との勝負です。

しかし同人界隈では違います。

まがいものだとわかっているけど、買いに来てくれる同胞たち。
そして、自分の苦労を理解してくれる先輩たち。
彼らが客を演じてくれています。

これってつまり、
学校の文化祭の出店
とおんなじわけです。


がんばってるねーと努力をほめてくれる先輩。

多少出来が悪くても笑いに変えてくれる友人。

めっっっっちゃ微笑ましいやん!!!























待って。ちょっとアレ見てよ。
文化祭の出店なのに売り子が真顔で
クリエイターの労力をバカにするな
とか言ってんだけど(笑)













しかしこう考える気持ちもわかります。
一般的な市場とは乖離しているとはいえ、とらのあななどが
ノーリスクで自費出版者をかつぎあげる利鞘の良い業務などを始めて、
仮にでもなんでも特定市場で作家として振る舞えるような環境を作ったこと。
そう勘違いせずにはいられないような環境があることはまちがいないんです。


でもね、視野が狭いの。
やっぱりどこまでいっても文化祭のペラい同人誌とかわらないの。
いくら見た目をとりつくろっても、大目に見られていることはまちがいない。

ここで重要なのは、同人における作家は「ごっこ」です。
しかし読者はそうとは限らない。作家にとって他人であればあるほど慧眼のある相手です。
だって、彼らはプロが相手している連中と変わらないんだもん。


それでも趣味でやっているのなら何も問題ないんです。
自分の作品が取るに足らない、愚にも付かない、それでも好きでやってると思えるなら。
好きでやってるんだからいいんだよ!と言えるなら立派なアマチュアです。

けれど自分を作家性のあるクリエイターだと定義したときにおかしくなる。
真っ白な本に描いた俺の作品には価値がある(笑)とか言い出したらおかしくなるんです。
Banksyのようなリターン度外視の「表現者」とも違い、金銭の評価を求めている。

著作権だの転売だの原価だの、
一般社会――すなわち公の価値基準を持ち出したとき、
そのとき彼らの至らなさと勉強不足、なにより覚悟の欠如に直面するのです。

性的弱者がエロパロに浸るのは、見る目がないからだとグリッドマンの記事でいいました。満たされない性に目が曇っている。しかし彼らとて真贋を見極める目はある。
コミケでまがいものを好んで買い漁るような表現弱者でさえ、それが公で戦えるような商品かどうかの見分けはつくわけです。オリジナルだろうがなんだろうが。

同人とはお互いに申し合わせ済のゲームです。
自分たちの活動はライフワークだと予防線を張りながら、
なんちゃって市場のクリエイターごっこをしています。
それは作品の発表の場ではなく、コミュニケーションに近い。
だから、できるかぎり衝突を避けるように市場と同じように苛烈な評価はしない。優しい優しいやりとりを約束された作家ごっこ遊び……。

しかし、商品に値札をつけた以上はそれを軸に商品として判断される矛盾がある。
そして、なにより同人というゲームプレイヤーでしかないのに
自分を作家だと定義してしまった彼らが
身の程も知らずに自分にクリエイターの札をつけてしまったとき、

こんなものに値段上乗せしちゃって恥ずかしくないのw

とごっこ遊びに乗らなかった人の自然な反応にヒステリーを起こすんです。
それは決まり切った慰め合いの粘膜の裏側に常に潜んでいる実社会の評価軸。
それに触れたとき、自分が本物のクリエイターだと思っている人間が起こすのはヒステリーです。うるせえ、好きでやってるんだからいいんだよと消化できないんです。


もちろん、文化祭に遊びに来てくれた友達は一緒に怒ってくれるでしょうが、
友達だから怒ってくれているわけです。作品が原価を語れるレベルだからじゃない。
でもそれにすがりついてしまう。

バカ同士で信仰を共有すればいつかそれが真実になると信じている――。

前の記事で語った韓国人の特性ですが、まるでそれとよく似ています。
全方位に喧嘩腰: 〈BTS原爆Tシャツ事件〉から見る日本人の"韓国人化"のヤバさ
実際、この記事で私は韓国人を同人作家にちょうどなぞらえていました。



"表現"の力でしか評価されない作品を原価率で語られる、というのは
まさにごっこ遊びの最中にガチの一般的感覚の『読者』が提示する現実の評価軸に触れてしまった瞬間なんです。空気が読めないってのは実際そうかもしんないですが(笑)
ともあれ、原価を語ったのがどんな目的であれ、作者を前にしても大事に扱ってやるような作品ではないと思われたのは事実であって、実際にたいした出来ではないのはまちがいないんです。








私はいじめの記事で、
集団に属したとき、その基準から外れることでいじめは発生するといいました。

全方位に喧嘩腰: 八王子の中2いじめ自殺が、またいつもの「泣けるいじめコンテンツ」に変わっていくのを止めたい


彼ら、愚にもつかないものでごっこ遊びをする自費創作者は、
同人というごっこ遊び集団のルールを守れば彼らの仲間でいられます。

しかし世間一般のクリエイターという評価軸に属そうとしたとき、
その基準の判断者である読者は容赦なく判断してきます。それは、不特定多数の洗礼と市場主義によって洗練された作品を基準としてモノを見る人たちです。

背伸びしてクリエイターという集団に属そうとしたとき、彼らの能力も気位もあまりに低い。

彼らが底辺だから、クリエイターの基準に満たないから、
馬鹿にされていじめられてるだけです。





学園祭の売り子なら相手してもらえても、
クリエイターとしてはてんでお話にならないから。
それに怒るようなら、同人に戻ればいい。

でも彼らはできないんです。原価率で語るな、原価率で語るな、自分の作品はそんなものじゃない、同人はもっと尊く扱われるべきだとだから叫ばずにはいられない。何度も何度も仮想敵を持ち出して、優しい他人しか受け入れたくなくて。

でもね、理想の他人を設定しなければ行動できない典型的な日本人――クリエイティブにもそれを求めるような平凡な人はクリエイターを名乗ることさえ向いてないですよ。




たとえば、コミケは文化といいつつもコンビニバイトと変わらないわけです。
接客業の底辺です。
「ブランド店」まではいかないにしろ、それが「書店」や「塾」になるだけで相手にする客層がまるで違ってくるのは感じられます。
私の稼業の一つであるアドバイザーでも、相手にする団体のランクによってまるで受ける印象は変わってきます。もちろんお話しするときの食事のランクも(笑)

コンビニは誰でも来るから、ゴミのような民度のやつが来るんです。
実際コンビニで日用雑貨品を買うってちょっと底辺率高めなとこあるじゃないですか。

つまり、ゴミのような客と出会うのは、あなたがゴミ溜めでしか活動できないレベルだから。クリエイターを名乗れる場所が、同人団地やSNSしかない底辺だから。

これ言っちゃ身も蓋もないんですが、
自分で金出さなきゃ作品出せない時点で無理してんですよ。

打ち切り漫画を持ち出しで形にしている作家さんとかもいますよね。無理してるんです。

同人作家(笑)を名乗る人たちのやりたいことは世間的には大したことのないもので、技術も労力も足りないんですよ。そしてなにより値札をつけているくせに出来が悪い。


同人というごっこ遊びのルールに乗らない人が見れば、
悪かろう安かろうは当然です。

例外は公式コンテンツの「お疲れさま本」くらいですかねぇ……



好きなように売るっていうことは、好きなように買われるっていうこと。
頭が悪くてもせめてそれくらいわかっておきなと言ってあげましょう。
背伸びして粋がってないで、趣味としてリラックスして楽しみなって。
なによりも常にプロを相手にしている読者の方から。
あなたたちの方が物が見えているはずですよ。














[オマケ]

そういえば
「同人誌の転売は是か非か」
って話も同じタイミングででてきてましたね。
一応それにも言及しときますか。
是でしょ。絶対的に是。

だれかがフリマで売ったセーターがメルカリで転売されたとします。
そりゃ売った人からすりゃイラッとくるかもしれませんけど、
同人誌ってそのセーターとかわんないですよ?
手編みかどうか知ったこっちゃないです。

著作権なんて、この記事にさえ発生する効力と変わらないです。
どうこうしようったって法廷コントにさえ持ち込めないですよ。

そもそも法律の話を持ち出すと二次創作はお話しにならない路傍のゴミで、
(というか著作の権利を主張すると、今度は責任と義務が発生するので逆効果です)
一次創作だってなんら法律の庇護対象としては強みなんてなにひとつないんですよ。

ネット上の法律解釈に関しておまぬけの度が過ぎるのは、
バイトは本来業務の補助的役割でなくてはいけない
とかいう底辺思考が一時バズった件とかでわかりますよね。
そこで理論武装しようってのは無理なんで、諦めた方がいいです。
同じレベルのバカしか騙せません。



さっきも言いましたが、
好きに売りたい相手に対しては、好きに買うのも自由。
そして買ったものをどうしようと自由。


同人グッズなんていくらでも転売してもいいし、
原価を理由に値引きしてもいい。ネットに上げるのさえぜんぜんOK!(笑)


これは仕方ないんですよ。

市場のルールにものっとらずにアマチュアでやる。
趣味として楽にクリエイター気分を味わいたいからやってることです。
作り手がルールの押し付けていけるように、客だって今度は同じになるわけですよ。

その人が商業経験があろうがなんだろうが同じことです、
コミケに物出してるほど暇なやつってことには実際変わりないですから。




同人なんて、創作弱者同士の世界ですから、舐められて当然。
クリエイターごっこのフリーマーケットである同人界隈において、客の側も評論という形で表現者を気取っているわけです。表現しなければ傷つく世の中で、あるいは評論さえ表現の一つでありますから。底辺レベルの表現で茶を濁して満足したいのは売り手も書い手もおんなじなんですよ。みーんな、同類、同類。作品出したからって上に立てるような環境ではないんですよ。


いずれにせよ、
趣味だろうとごっこ遊びなんだろうと客を求める以上、
お前ひとりで決められることじゃないよね。
っていうことなので。


もちろん、彼らが
ゴミ出しできてえらいね
ってほめられたいのはわかります。
だけど、そうなると今度は乞食がゴミ漁りに来るわけです。
本物を出せない以上、つきものです。
だから、たまにはもうちょっと落ち着いて身の程を見直すのもいいんじゃないですかね。
妄想と現実の摩擦でヒステリーが起きるのは世の常です。不健康ですよ。


好きなことをつらぬきたいなら、値札なんてつけません。
売れるように題材や描くものを選ぶわけだ。バンクシーとは違う。
それをつける以上、やはりやりたいのは作家ごっこなんです。

だから本来は同人作家ではなく、作家同人活動者なんです。
そういえば作家ごっこだと自分を戒められる。

もっと正確にいうならただの自費出版者・自費制作者にすぎない。
それをフリマで売ってる人だと考えればもっと楽だ。
素人AVとかも含めてそーゆーことなんです、一般的には。







「同人誌の作り方」的ムックも出てるあたり、
ある意味歌い手やゲーム実況者的な誰でもできそうブームを迎えつつあるのは感じます。

しかし、公に認められない程度の表現を売ろうというとき、
同業者とばかり傷をなめ合っているとそのぶん現実と向き合ったときの反動は来ます。

森の中で見る夢は、現実にはなりません。
いまさら浸っている人はどうあがいても抜け出せないでしょう。
ガルパンの公式四コマに選ばれながらも、まともな仕事ができずに底辺に戻るしかなかった人もいますね。



それはそれで身の丈に合った生き方というものだと思います。
できないものはできないんです。能力がないんだから。

しかし忘れてはいけないのは、
この上の例のように同人界隈は森の中の夢に過ぎない。
現実はどんどん遠ざかっていくものなんです。

本来、書籍は原価率で語るもの。
自費出版者がそれに対してヒステリーが起こすのは、
ふだんからそこに描かれた表現にお情けでほめてもらっているから。
がんばったぶんだけ褒められるという小学校並の価値基準があるところだから。
なによりそれが本当のクリエイターの証明だと彼らが信じてしまっているから。

真っ白なじゆうちょうの落書きを
仲の良いクラスメイトだけがすごいすごいと
褒めてくれている程度に過ぎないというのに。

無能ががんばっただけでは技術料なんて発生しない
ということを忘れてしまっているから。


そういう面もたまには意識してみると、
あるいは彼らの心の安定になるかもしれないのにな、と思いました。








[閑話]
次は『スクエニの現状について』の記事を書くつもりなんですが、
知り合いにスクエニのスタッフが一人もいないのでちょっとどうしようか迷ってます。

2018年11月22日木曜日

芸能プロ社長の指図で鍋に顔を突っ込んだ男について思うこと



オフにテレビを見てたらこんなニュースに出くわしました。



てことで今回のトピックスはこれ。
たまには短文の記事を秒で投稿するのも悪くないかな、と。


この件を見てまず思ったのは社長相手ではなくこの被害者について。
いや鍋に顔突っ込む前に席を立てよ。
突っ込んでから訴えるんじゃなくて。
日頃の鬱憤をまとめて社長にダメージを与えてやろうと考えていたのなら別ですがそうではないでしょう。

「悪ふざけ」とは社長の弁ですが、保身の言い回しだとしても、
実際「悪ふざけ」です。受ける側がいるからこうなるわけです。
全方位に喧嘩腰: 八王子の中2いじめ自殺が、またいつもの「泣けるいじめコンテンツ」に変わっていくのを止めたい
以前この記事で語ったように、いじめは、いじめられる人間が自分の属する集団の末席に依存していたいからこそ起きることです。
良い大人が何やってんだ。
社長じゃなく被害者にいっています。生活のため? いやどうでもいいです。自分の都合です。社長がクズでもそんなクズに養ってもらっているのは自分です。

全方位に喧嘩腰: グリッドマンのヒロイン抱き枕は結局、アニメや女性をナメているのか否か業界人が答えてみた。
全方位に喧嘩腰: 〈BTS原爆Tシャツ事件〉から見る日本人の"韓国人化"のヤバさ

さきほどのいじめと同じく、ここらへんで共通して語ってますが、
アホをアホが受け入れる世の中です。
顔突っ込んで火傷までおってようやく泣き言をわめきちらすくらいなら、
その前に考えられることも選べることもいくらでもあっただろうが。
すくなくとも顔の火傷は回避できたでしょ?

2018年11月21日水曜日

〈BTS原爆Tシャツ事件〉から見る日本人の"韓国人化"のヤバさ



人間は常に沈下の危険にさらされている。
ただしその一方で上昇の可能性も目の前にある。
どんな現実の様相やシークエンスが、いつなんどき、
そのどちらに変わるかもしれない。天国と地獄、それは死後ではなく、いま現在にある。
抑鬱、それにあらゆる心の病は、沈下を意味する。では上昇は?
それはいかにしてなしとげられるのか? 感情移入をつうじてだ。
外側からではなく、内側から他人を把握することによってだ。
――フィリップKディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』より








なーんて意味深な引用をしつつ、
今回のトピックスはこれ。




いやね、意外でした。
これを日本社会全体が問題としてとりあげたこと自体がです。

「原爆酒」みたいにガチでシャレにならない件に比べれば、
頭の弱いジャリガキの粗相でしかないから適度に扱い易いんでしょうが、
それにしても、2年前の着衣の件をほじくり返して排斥するだなんて、
後光表現をかたっぱしから旭日に見立てて抗議運動を始めるような韓国の国民性のようで、
いままでの韓国にまつわる臭いものには蓋日本的パターンとはちょっとちがいますよね。


まず一つめの提言ですが、韓国への反応はあくまでこれでいい。
『韓国』という国家を代表する人間が、一般的な社会性をもってテーブルにつくことは永久にないでしょうから、これでいいんです。
IQが違う相手と会話が成立しないように、良識をもって接することはただの時間の無駄にしかなりません。
地理的文化的に密接にしている隣国を「相手にしない」のも難しいですから。



ともあれ、このたびの反応は、「正しい」。
すなわち、日本国民が、韓国の国民性をある程度学習したということです。

ここに危険がはらんでいます。
今回の記事はその警鐘を鳴らすことが目的です。

相手を理解するということは、
自分のなかに相手の思考回路を取り込むということでもある。
それはたとえば、
「ミイラ取りがミイラになる」「深淵をのぞくときまた深淵もこちらをのぞく」
といったような言葉によってあらわされてきました。

先述したように、今回の日本側は韓国的な反応であることは意識しなければなりません。韓国の国民性がそうであるように、ヒステリーに狂うことがスタンダードだと勘違いしてはいけない。


ときに、バカのふりをしているとバカになる、という逸話があります。
これ、実は的を射ています。
人工知能は「帰納」と「演繹」なる思考経路によって成長する知的存在です。
しかし、それはもともと人間が言語によって獲得した能力です。
『帰納』=『特殊なものから普遍的なものを見いだす』人間の思考とは、
奇行の中にも自分らしさを見いだして、それを正常だと思い込むエラーをはらんでいる。

この理論が具体的に適用されているもののひとつは、
カウンセリングにたずさわる心理士です。
職業として精神病者の認知両療法に向き合うことになった人間がもっとも注意を払うべきといわれるものは、クライアントを傷つけることでも心的状況を悪化させることでもありません。なによりも、クライアントに影響されないよう距離を置くことです。

精神疾患を抱える相手を理解し接することは、
心理士の側にも強くフィードバックされる。
カウンセリングとは患者が病識を認知していく過程を併走する行為ですから、
同じ形で病的な思考をトレースしていくことになる。
仮にでもなんでもなく、病的な思考回路を一時的にインストールするはめになるのです。

異常心理はたやすくフィードバックされる。そのとき、心的健康を害すれば、治療どころかお互いに状況の悪化を辿ることになる。だから気をつけなければいけないのです。
クライアントから距離をとるためには、フォーマットを意識する必要がある。

異常心理を抱えた韓国をクライアントとして、
それを歴史的に介助してきたのが日本です。
クライアントに適応しはじめてきた今こそ「健康的な思考」のフォーマットを作る必要があります。












さて、こんな導入から始まった今回ですが、
いつもの業界人お試しパック(大増量版)=無駄な有識者と要約している筆者の長所を捨てて、本当の意味での有識分野である心理の面からお話ししていこうと思っております。


健康的思考のフォーマットを作るために、韓国の異常な国民性と、そしてなにより、汚点も当然抱えている日本人の心理傾向を客観的に説明しようかと思います。
全方位に喧嘩腰なんですから、韓国だけ叩くような心地良い記事じゃないですよ。

理想の自分を捏造する韓国の国民性
理想の他人を捏造する日本の国民性
その相性の最悪な良ささえ見つめ直す荒療治が必要になります。

いまのうちに今回の結論を述べておきますが、
日本が韓国に正しい反応をできるようになったのはだれかが「そうすべきだ」と国民が理性で判断したからではない。だいたい社会全体の反応とは、個々の理性など超越して起きる感情的反応の総体です。それが韓国の神経症的暴走に対抗するまでになった。
つまり日本の内面に韓国とタメをはれるくらいヒステリー文化が育ってきたということです。結果は正しくても、過程は健康的ではありません。そのことをこれからじっくりと説明していこうと思います。







① 韓国の国民性とは

韓国の国民性とは、虚栄心のひとことで説明しきれます。

この記事をここまで読んでいる方ならわかっているでしょうが、
これらの性質を示す好例として、

・整形大国
・起源主張傾向
・前大統領の社会的抹殺文化

わかりやすいところでこの三点を挙げてみることにしました。


韓国は説明不要の整形大国です。
美容整形の文化は日本にももちろんあります。芸能人が当たり前に美容整形し、液体注入などによるプチ整形が広まっている日本が何を言うかとおっしゃいますが、一般人の誕生日プレゼントが美容整形になってくる文化は並み外れています。部族の入れ墨と並べるにはあまりに劣等感に根ざしすぎた姑息な生き様ですが、それでも、個人的にはそれはそれでいいと思います。

ただ、それが祝福に値する社会から透けて見えるのは、
ありのままでなくてもいい
という精神構造があるということです。

「旅の恥はかきすて」という言葉がありますが、このを韓国にとっての一生に置き換えるとわかりやすいかもしれません。流浪の身ではなく一国家なわけですから、「なかったことにする」方法論が求められるわけです。
「自然」の恵みに感謝し、それを親からもらった肉体にもおよばせる日本の考え方とは対極にあるものです。


次に、起源主張文化。
これについては五輪を巡るコムド騒動を例としてあげましょうか。この騒動を乱暴にまとめてしまうと、「剣道の起源は韓国であり、父親な原点である韓国剣術こそが五輪の競技として採用されるべきだ」という韓国側の主張に端を発する論争です。

日本には「雨だれ石を穿つ」という諺があります。まったく同じ文脈で、語尾を「石を割る」とする英語圏の諺があります。むろんその意味は同じものです。
このように、同じ人間である以上、ある程度、この世界の森羅万象にむきあったときにうまれいずる文化に対する向き合い方というものはだいたい似通ってきます。

同じように、人と戦うため、あるいは獣を狩るために、全世界中のひとびとによって、まだ言葉もないころから鋭く研磨された武器がさまざまな形で生みだされてきました。その武器を扱い続ける中で効果的だと考えられたものは理論化され、いつしか「術」や「武道」の体系をもって結実することになります。剣道もその一つです。

そういう普遍的なものを「我らが特殊の発祥である」と考えがちです。
我こそ数多の文化の中心であるという自負を持つ中国などの国民性とも似通ってきますが、それらとは違うことは仮定を理論武装にしてくることです。すべては神が生んだものであるという信仰に近いものです。コムド関連の主張は宗教勧誘に最も似ています。

すなわちどういうことかというと、
物を知らない上に、物を調べない
ということですね。
この思考停止がどのような文化の流れを生むか、
それは韓国の国民の代表である大統領を見るのがいちばんかと思います。




前大統領の社会的抹殺。
韓国文化では大統領が交代するたびに、前大統領に社会的制裁に晒され、
政治の舞台から退場させられるのが常です。普通に逮捕さえされます。
これには二つの側面があります。

一人の人間の立場次第で問題であることを問題でなくすることができる

ここまでは日本にもあります。全世界の権力者にできることです。
ただしもう一つの面が問題です。

一人の人間の立場次第で問題ではないことを問題にすることができる

早い話が、司法行政を自分の都合でコントロールする独裁者が大統領になることが当たり前になっている国ということです。それが当たり前にくりかえされる文化圏、これがその文化圏の国民の代表です。

それが対日本にあらわれたのは枚挙にいとまがありませんが、
もっとも直近では徴用工問題でしょうか。

大統領の言葉によると当時の国際法は真実にあたらないそうです。一事不再理の考え方は国ごとなので反論として持ち出すのは妥当ではないですが、それをしてももはや司法を擁する国家の思考としては原爆Tシャツなんて可愛いくらいの狂気です。
"現実は固定化された夢のようなもの"というのは往年の『アナザヘヴン』の台詞ですが、
現実を明晰夢のようなものだと思っているのが韓国の国民性です。

これに異常と気づけないのが韓国の国民性です。
韓国の国民性において、唯一無二の真実などなく、恣意しかないわけです。
自分ののぞむものを具現化できると感じる、幼児特有の万能感連綿と続く歴史や事実に目を背け、上っ面を糊塗することでそこに描かれたものに価値があると信じたい、信じている。彼らの人生観は夏休みの絵日記と変わらないわけです。

しかし現実を嘘でぬりかためた以上、本質的にはそこには何もなくなってしまって、虚だけがある。
それでも、なんとか虚を形にしようともがくのが韓国の国民性です。
韓国がロビー活動に熱心なこともなんとなく見えてきませんか?


……しかし、そんなものはおいそれと通用するものではない。
嘘を嘘と見抜けない人間――慧眼のない人間がいてはじめて通用する考え方です。
まがいものに価値をみいだしてとりあってくれる人間が必要なんです。



これは以前語った表現弱者と性的弱者の関係性によく似ています。
韓国にとって世界はコミケその国民性は二次創作で性的弱者にすがるしかない底辺の絵描き同然なわけです。



そうして、彼らは、虚を実として受け取ってくれる人間を捜し続けている。彼らはいつなんどきでもその機会を、その対象をうかがっている……。



……
……
……


過去の日本は「良識のある話し合いをしよう」と今まで韓国との問題解決の対話にのぞんできました。

論議というものは、互いの思想互いの利害のつり合いを、
一般的な観念と良識中心軸として行われるシーソーです。
韓国の場合、その中心軸虚言もしくは信仰です。

原爆Tシャツを作ったメーカーはあくまで原爆の被害者を在韓と在日で分けて、後者を排除したように、感情的な発言を公のメッセージとして発することに疑いを持たない相手であるわけです。



…は? 韓国人にもまともな人はいる?
当たり前でしょう。

それでも個々の良識などたやすく押し流し、
カリカチュアライズできるほど一括できる全体行動のことを国民性というのです。
そして、大多数の国民はそれに準じている。サブタイプに希望を見いだせるほど社会のダイナミクスは容易くありません。


その証拠が韓国の愚かな面としてあげられがちな「火病」です。
この概念は本来は「文化依存症候群」と呼ばれているものの一種で、特定の文化圏において多く見られる精神障害の傾向を指します。
症候群の名のとおりに「文化が引き起こすもの」であり――それは、文化の病的な面が人間を通してあらわれたものです。

「火病」は乱暴な言い方ですが、そのありかたは集団ヒステリーです。
ヒステリーは欲求が満たされないときに起こるもので、ここで挙げるのは少々気が引けますが、もっとも純粋なヒステリーとは、自分で決めた物の置き方が崩されると泣きわめく自閉症児の混乱です。

ストレスで起きるヒステリーは個々の体験に依存する。
しかしそれが全体的に起こるとなると原因は先天性に寄ってきます。自閉症児が全体的な傾向としてその性質をそなえているように。
傾向としてのヒステリーとは、自分で決めた物の置き方しか耐えられない人間が起こすものです。

これが韓国の文化に通底した国民性です。

しかも、個々の傾向によって発達を鍛錬でおぎなえる自閉症児と違い、
国民性に個々の理性が介在することはありません。
永久に合理的に成長することはないんです。

良い面もあります。
スポーツなど過度な感情的集中を要する場であれば、彼らの感情が力に変わることもあるでしょう。でもまあ、しょせん娯楽です。たとえばサッカーが貧民の娯楽といわれがちなのは、貧民が成り上がれるからもありますが、たとえば英国で職につけない浅学な無職の若者が身の程を忘れて酒を片手に騒ぐためにすがるもの、富裕層や知識人は見下すようなものだからです。
娯楽は国家の価値など左右しません。あるいは精神的物理的貧困のバロメーターでさえある。『レディプレイヤー1』だってなにもない世界のすがる先がMMOでしたよね?
そういった娯楽を輸出して、偶像商売を得意していることは皮肉としかいいようがありません。日本のアニメーションという娯楽の根底を性的弱者が担ってきたように……。


そのように、韓国の国民性とは、
成長の期待できない末期的ヒステリー患者そのものです。

なぜ韓国には同レベルで対応するのが正しいのかこれで説明できます。
粗相をしたらダメだと身体でわかるようにひっぱたくしかないからです。
何が粗相もわからないのだから、噛まれたら噛み返すことで痛みを教えてやるしかない。動物がじゃれあいの中で甘噛みをを覚えていくように、動物のレベルまで落ちてやるしかない。あるいはもはやトイレすら学習できない痴呆の老犬かもしれないとしても。

そして、なにより大事なのは、今後いっさい韓国の虚無の二次創作を受け入れないこと。そこで一歩踏み込ませたら、パワー系が暴れ回るだけの地獄絵図が広がりますから。



……
……
……


ここまでは韓国の浅はかさを語ってきました。
しかし、他人を一方的に見下して気持ちよくなれるほど私は韓国的ではありません。
どういうことかって?
そんなキムチ臭のする同人詩に金を落としてきたのはどこのどいつだよ。
と日本の国民性を恥じ入らなければいけないんです。

表現弱者が、審美眼を持たない性的弱者しか相手できないように、
日本人もまた見る目のない知的弱者なんです。
だからここまでつけこまれているんです。



韓国に国民的風土病があるように、日本にも病はある
それが日本の文化依存症候群、すなわち「対人恐怖症」。これが示す病的な日本の国民性こそが、いままで韓国をつけあがらせてきた原因でもあります


私は、
"過去の日本は「良識のある話し合いをしよう」と今まで韓国との問題解決の対話にのぞんできました。"
と先述しました。
そして、
"論議というものは、互いの思想互いの利害のつり合いを、
一般的な観念と良識中心軸として行われるシーソーです。"
と。

しかし、それがうまくいかなかったのは韓国が狂っていたからだけではない。
日本の側にも一般的な良識などなかったからです。









② 日本の国民性とは

日本人の良識は歪みがあります。
ひとことでいえば、日本の良識とは卑屈さです。
つけこまれたのはそのせいです。これは、後に後述しますが、ネットに触れた世代が息苦しさを感じがちな面でもあります。

韓国が異常心理のトピックスを投げかけてくるとき、我々は少なからず反応せざるをえないときはやってきます。それが少しずつわたしたちを毒していくかもしれない。そのときに自分を見失わないために必要なものは、正しい良識を持つことです。


そのために、日本固有の卑屈な良識を解剖していきたいと思います


日本人の国民性は「調和」「謙虚」でしょう。
日本古来の美徳として語り草にあげられる「江戸しぐさ」はその好例です。
互いに肩を引き、道をとおりやすくする
というものです。

ここで重要なのは
お互いに
という調和を前提とした文化だということです。










お互いに道を譲り合うなんて当たり前のことなのに
わざわざお題目をつけて掲げるのが日本の文化なんです。
ことさら「謙虚さ」を誇張し、これは粋だと悦に入るのが日本の文化の病的な面なんです。


時は巡りて現代日本においては、
道をゆずってくれた車にハザードランプで感謝を示すという
ドライバーの文化があります。これを見て「クールだ」という外国の方もいますね。
そもそも似たようなやりとりなんて世界中に自然と生まれますが。


しかしこれにはクールではない一面がある。
これが『申し合わせ済み』のお決まりの文化になったときに起きる齟齬。


道をゆずってあげてわりこんできた車が、ランプをつけずにそのままアクセルを上げて走り去ったら?「挨拶くらいしろよ」と苛立つ人はかなりの数にあがりますそういうルールに従って謙虚さを示すことが前提とされている文化だからこそ

むろん、「挨拶をしたのに挨拶し返さない」、「助けたのにお礼をいわない」、そういった黙殺が失礼にあたるのは万国共通、文化人には当たり前のことです。

しかし、礼を示し合うことを前提とした社会行動を次々と生み出すのが日本の傾向です。

日本の江戸しぐさが「相手が肩を引かなければ成立しない」ように――
こちらが示した謙遜に対して、相手の感謝の見返りを求める文化が多くあります。

お歳暮も、ホワイトデーも、これらはなにもかもにおいて感謝の見返りを求める文化す。いや、ホワイトデーとか好きですけどね私。

ようするに、ドライなままでいることを許されない文化圏です。接客業の過剰な挨拶などを見れば、それがよくわかりますね。
りゅうちぇるなども我が道を行くならあそこまで叩かれませんでした。ドライでいることが耐えられないから、共感を必死で求めた結果があれです。


お歳暮にお歳暮を返すことが良識で、それをしないことは失礼にあたる。
そんな日本の良識とは、見返りを前提とした文化に立脚しています。
「江戸しぐさ」がそうであるように、自分が謙虚に身を引けば向こうも身を引く、そして心地良い公平な関係性が築ける。
それはすなわ、「見返りがあるものと確信しておこなわれる卑屈な行為」でもあるわけです。そうすることで対等になってくれるだろう、良い顔を見せてくれるだろうという上目遣いのごますりが日本の美徳の影には見え隠れしています。



日本の文化に依存したときに生まれる「対人恐怖症」。
それは「相手からの見返りを確信できなければ動けない国民性」のあらわれです。
自分の身の程など二の次にして、「自分にとって都合の良い人でいてくれるだろうか」ばかり気にして、一人一人の性格にしっかりと向き合えない。自分に合わせてくれるだろうかという甘えた考えを持ち続け、合わない人とは付き合えずに自分だけの世界で適応障害を起こした思考停止が日本の国民性です。相手の顔色をうかがうのは、それに合わせるためではなく、自分の理想とするパターンになってくれるのを待つためです。日本人がディスカッションしない、できない原因もこれですね。考えたくないんですよ、「優しさ」のやりとり以外。

そんな風に、死ぬまで相手の隣人愛に過剰な依存をし続けるのが日本の国民性です。





日本には「嘘も方便」という言葉があります。
物事を円滑に進めるためにはうわっつらの言葉も用いることがあるという意味ですが、

日本における良識とはまさにこの方便そのものです。
「自分が悪くなくてもとりあえず謝る文化」がありますね。こっちが謝れば向こうも気分を良くしてくれるだろうと思うのです。
そして、互いに笑顔になってようやく対等に会話できる
――裏を返せば、そうなければ対話さえできない精神的な柔軟性の決定的な欠如があるんです。恋愛においても見合いが当然で、ゲームでも決まった選択肢を選ぶことでそれが恋愛の誤認として成立したように。始まる前から内容の決まった会議をすることが社会的な対話として考えられるように。


だから、責任の可否など考えもせずとりあえず謝る。
日本人は、善悪や客観性の判断を放棄して、自分の非をつくりだしてまで謝罪する。そうすれば、向こうは「いつものパターンにはまってくれるだろう」甘く考えて


「慰安婦問題」などがその代表例です。
韓国側のイキりっぷりったるや、そのうちクローンでも持ち出してくるんじゃないかと思う勢いですが――そもそもこの非をもちだしたのは日本です。

当時の国民が厭戦気分をぶつける先を探していたところ、日本のメディアが彼らに売れるトピックスのメソッドとによって持ち出したものがこれでした。
韓国がこれを受け取り、二次創作を肥大化させ、日本に対する交渉材料として持ち出すようになった。そこまではまだよかった。

そこで、
謝っていればいつものパターンにはまってくれて許してもらえるだろう、話はそれからにしよう。
と考えたのが日本の国民性がみちびきだした結論でした。
この流れは、昨今の筋違いのヘイトスピーチ制限が近いものがあります。こっちが黙れば、向こうも黙ってくれるだろうという上目遣いの猫撫で声としてはじめたものだから、本来の用途にくらべてはるかに卑屈なものです。

相手の要求を呑めば対等になれるはずだ…事実から目を背けて言葉を濁して金銭を与え続ければ、いつかお互いに笑顔の談笑のときを迎えられるはずだ…と。それが日本固有の、TPOを弁えず知的とはかけはなれた良識的な行動でした。

それがどうしていつまでも続いたのかって?
だって、いつも顔を真っ赤にしている韓国さんが、
「自分達がいけないことしました」って謝罪したら満足げな顔をしてくれるから。

――そうして、日本の国民性は、
対立を避けるため、ときには事実すら恣意的に歪曲し、
その物を調べることさえ放棄した。韓国がそうであったように。

良識のことを
優しくすれば優しくし返してくれる魔法の呪文
という思考回路のことだと気付くことができないのが日本国民です。

売れない作家が編集者に苦言を呈されたくらいでSNSで泣き言を喚き散らすように。
優しさを返してくれないことは良識的ではなく、罰するべきことだと思い込んでいるんです。
すなわち、日本の国民性は毎日でも幼児プレイをしたくてたまらない風俗通い同然なんです。



――まとめましょう。

優しくしてもらえるなら恥すらいとわない。
その幼児性日本の国民性です。



主権を持ち得がたかった歴史から劣等感を育て続けてきた朝鮮民族の国家に突如ふってわいた、自分のプライドを満たしてくれるサンドバック。しかもそれはなぜか自分のことを叩いて欲しがっている。こっちが満足すれば向こうも満足そうな顔をしてくれる。つけあがるのは当たり前です。そうして、日本の卑屈な奴隷根性は、同じく隷属であり続けた韓国の恥知らずの虚栄と見事にかみ合いました。

理想の自分を捏造したくてたまらない韓国と
理想の他人を捏造したくてたまらない日本が、
どちらとも等しく"現実"を見つめていなかったためです。
現実から目を背け、向き合って来なかったのは同じこと。奇しくも、他者依存の日本が主導権を与えてしまうことになってしまったというだけです。

すなわち、韓国の異常心理のひとつである反日傾向はそもそも、
日本の思考停止とかみ合って生まれたものでもあるのです。

死ぬまで幼児プレイをしたい国民性を持つ日本人が、
すりよった相手はただの自分に甘いだけの虚言癖のメンヘラでした。

……そして、カウンターを始めた現在の状況。
それを公平な目で見たとき、日本人の態度とはこういうものです。




虚言症の病人に勝手にバブみを感じて、
相手が良識ポルノを一緒に楽しんでくれなかったから
今さらになって逆ギレをはじめている。

――それが今の日本人の反応の客観的な見方です。

帰納という思考によって、特殊から一般をみちびきだす力を持った人間は異常な精神構造をもってなお理性を同居させうることができる。
統合失調症患者が「集団ストーカー」という形で自身の異常性を理性で自己理解するように。

ゆえに、異常過ぎる韓国の国民性のなかにも微かながら理性は残っている。そんなわずかな理性を通じて日本人はそんな異常者として見られている。そしてそれは事実なんです。

日本人にとっての良識
相手の顔色をうかがって
出したりひっこめたりするまがいものものだったから
こんなことになったんです。
やらせ番組のメソッドを言論の場にすらもってくるのが日本人だからなんです。


韓国の虚栄が同人誌なら、人気次第で出したり引っ込めたりする
日本の良識さえも中身もなにもないご機嫌伺いの二次創作にすぎないんです。

どっちも空っぽなんです。頭の悪い人間がそれをもちだせば、日本の「和」は「パターン化」、「謙虚」は「ご機嫌うかがい」にすぎません。

私は冒頭で対韓国問題の反応はそれでいいとはいいました。手遅れだからです。もっといい方法だってあったに決まってるだろうが







③ 良識とは

ネットを通じて、日本土着の『良識の和』から逃れた新しい世代が、
少しずつカウンターをくらわせるようになってきた。そのひとつが今回の事件です。

まあ、それはいいです。
注目すべきは、メディアがこの件を隠さず扱ってきたこと。
すなわち、『新しい世代に売っていくトピックス』と知ってきたからです。
戦争の気運を高め、反戦の気運につけこみ、公平性などなく売れる思想を売り続けるメディアは次の世代への売り込みを考えはじめています。
これからは一過性の過熱ではなく、韓国へのカウンターの流れは本格的に根付いてくると思います。これは韓国問題の対症療法としては大事なことで、対外意識を正常化するためには必要なことでもあります。




ただし……
今回の事件を客観的に見たとき、
日本は韓国と似通った精神性があるがゆえに、
気色悪い相似形の流れが生まれつつあるなとも感じます。



他者への侮蔑で劣等感を慰め、相対的な誇りでなんとか自尊心を生きながらえさせる――精神の自発呼吸を失った人たちのようにはなりたくはないでしょう。そのためには、恣意的に出したり引っ込めたりする良識は捨てなければいけません。そろそろ現実に向き合わなければ、精神性はこのまま韓国に近づいていくことになります。




いやいや、日本と韓国では立場が違うじゃあないか。そもそも韓国はWW2における対戦国ではないのに戦勝国ぶっている、おかしな連中なのだから。そんな論調を見かけます。
妥当な反論ではありません。
ネットを通じて、日本土着の『良識の和』から逃れた新しい世代ならわかるはずです。



鼻につくタレントやメジャーなコンテンツがスキャンダルを起こしたとき、
当事者でもない一般人がネットを通じてつぶやくあの言葉。
「おまえらまた勝ってしまったな」
あれですよ。無関係だからこそ出てくる、自尊心だけ満たせる心地良い考え方。

韓国は日本の統治下にあった時代をなかったことにして、
そうして言いました。「勝ってしまったな」と。

自分たちが勝ったわけでもないのに勝利を感じ、その証明として謝罪を求める。
それはさまざまなニュースでも感じませんか?
なにかと謝罪を求める国民性は日本にもともとありました。謝罪させることで溜飲がくだり、そうでなければ身の程知らずだ、反省していないと見下す。
これもまた隣国の行動とかぶりませんか?

日本と韓国がかみ合ってしまったのは、もともとから似通っている部分もあるから。そこから目をそらすことは非常に危ない。かつて勤勉と拘りで知られた日本の企業が起こしている諸問題さえそれに通じてきていると思いませんか?









――
私が恐れているのは、日韓を結ぶプライドの接点が逆転して、
日本人に浅はかな韓国的勝利体験が逆流してくることです。
情勢的に見てもこのままなら日本は国家として韓国に強く出続けることができるでしょう。日本の現政権の外交手腕は卓越しています。しばらくの間は問題はないでしょう。国民はそれに準じます。ただその結果として、かつての韓国と同じように、日本人が勝手に勝利体験を味わってしまうと第二の韓国文化が生まれかねない。

昨今の日本人・日本文化はこんなにすごい系の自画自賛番組の流れだってそうではありませんか?あれはまさに感謝の見返りを求める日本の病気と、虚栄を求める韓国の病気のハイブリッドですよ。

日本の敗戦国の劣等感韓国の歴史的属国の劣等感は非なるものなれど劣等感です。揺り戻しはあって当然ですが、着地点が同じでは目も当てられません。




日本は「調和」の文化を生み出して続けてきました。
それが成立していたのは、調和のルールは先輩に手をとってみちびかれるなかで伝えられ続けてきたからです。
しかし、それは、ネットを通じて情報を収集し、効率的な行動をとることを基本とする現代日本の論法とはそぐわない。この新旧は結びつきがたい。消えていくものも新しく生まれるものもあるでしょう。それは憂うべきことでも喜ぶべきことでもない。


――この問題は、
日本の悪しき良識とともに、
その基準さえ薄れてしまったことです。

ネットというものは、「自分の見たいものを見る」というものです。動画のCMが僅か15秒でも視聴者にストレスを与えるというのはマーケティングの常識です。それが生む人間の精神構造は、自分の心地良い情報を取捨選択するということ。意図的なカットアップによって都合の良いストーリーさえ組み立てられる。

韓国の国民性がそのようにしてアイデンティティを構築していったように。

SNSでバズる漫画などに見られるように、自分は無垢な善人だと思い込んで、傷つけられたことを精一杯訴え、傷つけた相手を侮蔑したい人でいっぱいです。
どっかのバカがアルバイトはあくまで補助でなければいけないとありもしない労働法解釈を披露して、それにバカなフリーターどもがとびついた話題もありましたね。
そうしてなんとか自尊心を満たしたくてたまらないんです、仮想の敵を共有してくれる馬鹿と一緒にそれを打ち倒すことで。
バカ同士で共有すれば、いつかそれが真実になるなんて甘い考えは、まさに隣国の悪癖そのものです。現実を見ていない。
この先、韓国を叩くことで自尊心を得る、それを求めて情報を取捨選択する流れは増加していくと思います。しかたないことです。韓国にとっても自業自得です


今回の件はそのはじまりのひとつです。
考えもなく原爆Tシャツを着ただけの雑魚を叩いたこと、そのトピックスを追ったことで、あなたのなかのなにかが満たされた感覚はありませんでしたか?
典型的な間抜けを見下すことでいままでの劣等感が癒されるような感覚は?

それを否定するわけではありません。
ただし、それによって自分を見失ってはいけないといっているんです。

あることないことを都合良く解釈し、期待し続ければ、やがて現実との摩擦でヒステリーが生まれます。少しでも傷つくことが耐えられない病的な一部の女にセクハラという使い勝手の良い良識を与えた始末が今の日本のフェミニズムであるように。
彼女たちは自分が少しでも傷ついたとき、それを使って謝罪と自粛を求めます。韓国人のように。謝らせることが勝利だと思っているのは、日本人だって同じじゃないですか。


そんな人間にならないために必要なたったひとつの態度。

それは、良識をもってなお、ゆずれないものを見据えること。
良識ゆずれないものは別々に考えること。


今回のTシャツ事件を例に解答しましょう。

「原爆は二度と起こしてはいけない惨禍だ」
「それを嘲笑し歓喜する人間は許せない」

と二段の論法をしっかりと構えることです。
当たり前のことです。しかし、場合によってはこうなるんです。

『原爆の悲劇を傷つけたから攻撃する』






時代は変わり世代は転換期を迎えています。
私はおそらく新しい世代の側です。両親も戦争は経験していません。

そんな私にとって、原爆のこと、その被害者のこと、
彼らの心痛を心から理解することはできません。

当事者の言葉や、それを題材として扱った作品や、記念施設を通じて、
教養として知り、それを"想像で補っている"世代です

折に触れて原爆という我が国の悲劇を不埒に触れてくる韓国の国民性に怒りを覚えど、
それは完全に被爆者のためかといえば疑問が生じます。
原爆ドームで見た写真が脳裏に過ぎり、その悲しみを覚えただけでは決してありません。
だからこれは私自身に対する戒めでもあります。


原爆を口実として、宿敵を攻撃した。そんな感情はどこかにあるはずです。
そしてそれは韓国という国家が、国民を牽引してきたエネルギーとよく似ています。


悲しいことではありますが、いつか原爆のことも過去のものになります。
かつて虐殺の限りを尽くした暴君ネロですらいまや性的弱者の対象商品です。



かつて戦争を引き起こした新聞屋が同じように反戦気運を商品化しました。
韓国は国家がそれを主導していますが、日本の場合はそれがメディアです。
そしていずれは原爆など「民間人を狙った災禍」さえ商品トピックスにするかもしれない。だから今のうちに練習をしましょう。


「韓国に躾をする」
「侮蔑によって自尊心を満たす」

この二つを分けたとき、後者が悪識だと感じたときは理性によって切り離すこと。

「韓国に躾をする」
「たわけにはこう対応するのが当たり前」

としっかりと良識に置き換えること。多少の痛快さはユーモアとして味わうのも一興でしょう。でも度が過ぎてはいけません。

日韓合意などは良い例です。「合意」を後天的な「良識」、シーソーの中心軸として用意したのはいい判断でした。向こうが受け入れずとも、こちらの軸がぶれることはありません。だから政治の方は安心してください。いまのところはだいじょうぶです。問題は、政治になんて欠片も関係ないあなたたちです。



新しい日本の国民性の間隙に虚栄がふくれあがってきています。
隣の国を見てああはなりたくないと克己してください。彼らは慰安婦、徴用工、あらゆるすべてのものを口実に、なけなしの自尊心を維持する肥料に変えてきました。
私たちはそうではないはずです。









願わくは、「原爆の悲劇」なる良識を都合良く利用して、気持ちよくなるために
他人を叩くような国民にならないように。








それでも被爆者を捏造するような醜態はさらさないでしょうが。
そのあたりはさすがに日本の国民性を信頼しています。
それでも、社会心理学において、個人の行動を集団の総意に変換して考えるのは人間の基本思考です。韓国などに特化してしまって、そんな姿を他の人に見られるのは恥ですから。
……あるいは、そうしていれば、いつか韓国土着の虚栄から逃れた新しい世代と結びつくかもしれませんしね。
ないけど。イギリス方面見ればわかるでしょ?













最後に、冒頭にて引用した傑作から――その日本人訳者の言葉を借りようと思います。



アンドロイドとは、(中略)"現実"の世界(人間的な関わり合いと感じ方の世界)に接触できなくて、内側に閉じこもり、機械的な生活を送っている人間なのだ。
この新しい観点にたてば、(中略)ほとんど人間そっくりでありながら、人間社会にとっての潜伏的な脅威であることも、決して矛盾ではなくなる。
――フィリップKディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』浅倉久志訳 訳者あとがきより







2018年11月8日木曜日

八王子の中2いじめ自殺が、またいつもの「泣けるいじめコンテンツ」に変わっていくのを止めたい


大学二年生のころに塾のバイトである中学生を担当しました。
生徒の来歴をあらかじめ伝えられていた私が質問したのは

「いじめられてたの!?wwなんで!?www
 何されたの!?wwwwwwwwww」(当時の時代を反映した表現にしました)


無礼な私に彼女はパニックになることなく普通に答えてくれました。
私は好奇心の塊で、とにかく彼女の心理を知りたくてたまりませんでした。
なにせいじめることもいじめられることもなく育った人間なもので。
根掘り葉掘りいろんなことを聞き出して、「さすがにそれはやべーなwwww」と俺は楽んで聞き、彼女は苦笑混じりだったのを覚えています。

それから学習支援や進路相談を通じていじめ問題に触れたことは何度かありました。

それでもなお、あのころからずっと、
人間がその程度で破綻するものではないという感覚は変わっていません。






というわけで今回のトピックスはこれ!
痛ましい事件ですね。そして、典型的なだけに救いがたい。
せめてこれが史上初の報道なら報われるものもあるでしょう、
しかし事実として大河の一滴なわけです。

そして…以前に安田純平さんの記事で言及したように、
"売れる"カテゴリーとして報道が大々的に取り上げがちなニュース商品のひとつです。

さて次はスポーツです!と流されるやつです。

別に煽ってるわけじゃありませんよ。
報道に意義はありますが、それを肯定することとは別に、これが"売りに来ている"カテゴリーであるということは知らないといけません。
『いじめ』を使って売れる路線というものがあるんです。一例をtwitterのあるツイートで紹介しましょう。

この人はなんも悪くないですよ!?
ただ、これが売りたい路線なんです。マーケティングの王道です。
そして次の売り上げを拡大するための「浅い感動路線」
すなわち、反吐が出るような、「泣けるいじめコンテンツ」でもあります。
そうして、ここで生まれてくるのがこういった論調です。





これがヤバい。RT稼ぎではなく、これをマジで言わされてるからヤバいんです。
自殺した子を主役として、責任を与えるべき敵側を設定する方向性。
「何もしてくれないことは悪だ」と他人主体で考えること。

もちろん報道そのものの意義はあります。しかしやり方がマズい。

なぜかっていうと、どこにでもある弱い者イジメを
死んだ子を悲劇の主役に見立てていかにも義憤をかきたてる美しいドキュメンタリーに仕立てることで見えなくなってしまう視点がある。
口触りの言い弾劾の言葉では到達できない真実があるからです。


これがマズいもうひとつの理由は、 

たとえばこのように少年事件、あるいは学校という治外法権
のトラブルを扱うということは、真実が表に出てこないため、
何を言っても反論が来ないということなんです。
だからやりたいほうだい美辞麗句で飾ることができるってことなんですね。






ちなみに今回の報道を通して本当にわかることは、
① 自殺した子は転校後も学校に行かなかったこと
「大会に出たり出なかったりしていた」こと
「学校にいけない自分が嫌い」であること
「だれもたすけてくれなかったな」ということ
の四つです。下の三つは動画の遺書で確認できる文言ですね。

④についてはハッキリ言い切ります。
まわりがたすけてくれないからこうなった。最後は他人の力に頼ったんです。
自分を責めさいなみつまはじきものにしたはずの"まわり"に。
この泣き言をどうとらえるかが今回の論点になります。

あとは、もともと立場のある子なら家族旅行に行ったところで省かれたりしません
もとからうまくやれてはいなかった部分はあったはずです。
それでもなお"まわり"ばかり見ていたちぐはぐさがすべての元凶です。



え? もとより部活の拘束性がまちがっている……?
こんな自由が認められない環境はおかしいって……? お前りゅうちぇるか!?
ブルース・ウィリスの娘の爪の垢でも煎じて飲んでろ。
りゅうちぇるの件は、結局、世間の常識に対するバランス感覚の無さと、
そのくせ世間に歩み寄ってもらいたがってる押しつけがましさが問題なんですよ。
同じく夏休みの練習中に旅行に行くことも一般的な常識と比較してマイペースだと言わざるをえません。まあこれについては後々詳しく言及しますが。

ただ、部活のありかたは勝手に議論していてください。
大事なことではありません。

私が言及したいのは、『転校後の不登校』の件ですから。

だって、死んだのはいじめから逃れた後なんですから。(LINEの事は勿論後で言及しますよ)
そこで人生を巻き返せたはずなのにできなかったのはなぜなのか。
これは典型的でありながら、報道されるパターンとしては珍しいケースです。







さて、この記事の方針かつ結論ですが。
いじめを無くすことは100%できます
外見的に生まれながらハンデを背負っている人だろうがなんだろうが。
しかし、個人レベルでのみというだけです。
学校や社会や組織でも、家庭でもなく個人レベルです。


そしてブログの序文でいったように本ブログの運営方針は
時代遅れのブログだからこそできる
マーケティングの視点をかなぐり捨てる方針
にあるので、真っ向から正論をぶちまけていきたいと思います。


"転校後の不登校"ではなく"いじめ"にばかり注目する優しい加害荷担者たちと、動画からでさえわかる親の問題点ぶっ叩く路線なので、この"泣けないカテゴリー"を買うつもりがなければさっさとテレビやSNSやyoutubeに逃げてください。


"「いやぁ、うち夏休みは遊びにいきたいから、部活よりクラブの方がいいんだよね」
と自分の意見を言える子なら攻撃されたりなんかしませんでしたよ。"
↑ラストにはこんなこと言うような記事ですから。ね?













ともあれ、段階を踏んで説明しないといけないことなので、
ここにこうしてリストをつくってみました。



いじめを無くす視点を手に入れるために知るべきものリスト

① いじめられることには当然理由がある
② いじめられっこが可哀想な人とはかぎらない
③ いじめられる人はいじめられる人であり続ける
④ 他校でも不登校になった理由は優しい人たちのせい
⑤ 無知な善人に踊らされずに自分のための知恵を持て

この5ステップです。
それでははじめます。まずは一つめ。





① いじめられることには当然理由がある

これを説明しなきゃいけない時点でかなり詰んでます。

考えてもみてくださいよ。
だって……ゆづゆづですらいじめられていたのに?
フィギュアスケートの羽生弓弦さんのことです。
リアルシンジ君の降臨とかsyamuさんみたいなことを言う人たちが群がる
日本を代表するヒーローの一人ですね。
そんな人が理由もなくいじめられるわけないじゃないですか。


いじめられた人を見れば、ああこれはいじめられる人だなって
ちゃんとした経験を経てきた大人ならぜったいにわかります。

たとえばそれは愛着障害によるコミュニケーション障害ゆえかもしれないし、
自閉症スペクトラム障害による協調性の欠如かもしれない。
家庭環境の複雑なハーフゆえの劣等感からかもしれない。
当時人気絶頂だったアイドルがいじめの過去を吐露することが様式美であるように、
鼻につく上に世界観が違いすぎるからかもしれません。
ときに周囲に迎合できない哲学を持っている人かもしれない、ゆづゆづのように。
先輩に優しくされて良い気になったから同性から目をつけられたかもしれないですね?
いずれにせよ理由はあるんです。痛いと思われる理由は。

そして
理由をつきとめること=被害者の自己責任を追求するものだ
ということではありません。
他人は自分をうつす鏡なんですから、そこに被害者がいじめられた本質があります。
そこからおもちゃとして遊ばれることに発展するのは意味が違います。

そして、いじめられる人は、かならずどこかで一度はいじめられます。


だから、正確には100%いじめの再発防止はできるです。
しかしそれは一度目さえもいじめだと捉えないことでたどり着ける領域です。




② いじめられっこが可哀想な人とはかぎらない

そうやって人の愚かさばかり見る、キミの生き様に光明はあったかい?

仮にいじめの主犯格が複雑な家庭環境によって人格破綻を起こした人だったとしましょう。

でも、いじめというものは。
特定の集団社会の中で特定個人に攻撃を加えるということは。
その集団の中で自分の仲間がいたり立場があって安心感があるからできることなんですよ。
同じ集団の中に立場がないからいじめられる人はいじめられるんです。
だからやる側は、安心してそれを楽しみにすら変えられるんです。
会社の新人いびりとかってそういうことでしょ?

加害者の動機をいくら哀れんでも、権力者の方が強いんですよ。人格破綻者だろうとも
反撃されないからいじめられるっていうのは、そういうことなんです。
腕力の弱さや身体的ハンデや、あるいは気弱な性格だからでさえないんです。

いじめる側に回ることのできる人間は、
その集団のルールを牽引する力を持った人間です。
部活の最上級生がそうであるように。そしてそれは"悪"ではありません。
そしていじめられない子は、「その場」のルールを守っているということです。


しかし、自殺した子の親は娘を『規則を絶対守る生真面目な子だ』と評価していました。
『大会に出たり出なかったりし』て『練習を旅行で休む』ような子に。
これは後々響いてくる重要な事実です。





③ いじめられる人はいじめられる人であり続ける

いじめは立場を持っている人によって行われます。
その場のルール・マナーを熟知し
その場でチームワークを確立している人間が起こすものです。

それに合流できない人間がいじめられるんです。
足並みを外してしまったから省かれるんです
失うもののない無敵の人が起こす通り魔とはちがう、
特定の集団のルールにしたがって行われるチームスポーツのようなものです。
あるいはボーンヘッドをかましたことによるベンチ裏のペナルティです。
法的に見て正しいかどうかではなく、必ずルールを違反した人間にそれはふりかかります。
あるいは成長して美人になりすぎて、仲良しグループの美醜のルールを破るかもしれません。しかもそれを鼻にかけるように見えたかもしれません。そういう広義の話です。


そして、新しい環境に逃げるということは、
新しい環境のルール・マナーを熟知し
新しい環境のチームワークを確立している人間の中に飛び込むってことです。



ルールを破る人間は、その欠点をトレーニングで克服しなければまた戦犯になりかねません。
だから私はそのことも教えてあげずに「学校から逃げろ」とかいうやつ
完全にいじめられる側の奴の発想だなと思ってしまいます。

もちろん学校の卒業まで耐えたところでおんなじですよ。
その人はその人であるかぎり、仏教の教訓がそのように言っているように、
同じ試練と常にぶつかりつづけます


そして、たとえ逃げなくても、
何もしなければ同じことが起きます

いじめられるということは、ある意味で、
その場のルール・マナーその場のチームワークと接点を持ち続ける事でもあります。
いじめられている人間はそのことを肌でしっかりとかんじとっているはずです。

いじめを辛抱強く受け入れていれば、いつか集団に癒着することができるしれない。
そんなふうに思って、何もしないまま、いつか集団の末席につけることを願って
視野狭窄に陥ったまま、おもちゃにされる人もいます

ゆづゆづはそんなところの末席につく必要がなかったから
自分の意志でスケートリンクの上にいます。


このように、いじめ報道の感動ドラマ路線によって
「いじめ=不運」「巻き込まれた子=悲劇の人間」
を意味しはじめてきた現代、その言葉にすがることはあまりに危険です。
いじめにはこうした共通不変のメカニズムがあることを見過ごします。







④ 他校でも不登校になった理由は優しい人たちのせい

ここからが本番です。

昨今、「いじめ」という社会問題に対する環境整備や、
現場への問題意識徹底、ソーシャルワーク人員の配置は着々と進んできました。
そうして今や彼らはいじめという問題に対するホットラインを快く開いてくれます。
対応事例も増え、「いじめ」に対する転校措置もスムーズに行われるようになりました。今回の事件でもそういった対応が行われたように。

しかしステップ3で語ったように、ただ場を移すだけでは何も変わらないんです。
本人が集団のルールに対してどう向き合うかが問題なのですから。


そして、いじめの社会問題にたずさわる人々は、ただの他人ではなく、プロの身内です。
はじめから救い手として親身に接してくれる、他人ならざる善人です。

プロの善人だからこそ彼らは被害者がいじめられた理由を口にしません
あるいはそれを一緒に見つけようともしません、だって、その人が傷つくから
彼らはプロの身内、いじめ被害者すべての理解者ですそして次の被害者が待っています。
けっしてその人が抱える問題そのものを指摘する職種ではない。

優しい人に手を引いてもらって幸せな世界を目指すということは、「自分のふるまいはどこかおかしかったのかもしれない」という自覚を捨てる危険性もはらんでいます。


そして、本当の自分と向き合うためには、無責任な他人と向き合う必要があります。
味方を通じては自分のことは見えません。いじめっこ自身さえそうじゃないですか。
他人こそが自分をうつす鏡ですから。




たとえば。
性犯罪被害者が警察に「そんなふしだらな格好して歩いてるからだよ」と言われます。
事実です。
あるいはそんな格好をしてなくても「夜中に若い子があんな所歩いてるからだよ」。
それも事実です。
彼女はそういうことで狙われたのは事実です。かりに『不運』の部類が大きい犯罪だったとしても、不満に思って唾棄することは違います。
それでも露出の多い服装をつらぬくならばスタンガンを忍び持つのもいい。歩く道を変えるのもいいし、送り迎えを頼むのもいい、夜中そんな道を歩くのがだめならフェラーリをかっとばすのもいい。
何もせず同じ道で同じ格好で同じ被害にあったら、それが二度目であれば、後悔するのは自分です。なぜ自分が責任を追わなければいけないのかと嘆き続けていた時間で、「男の腕力でやりかえされたときの方策」など重要案件を少しは掘り下げられるはずですから。

あるいは「警察が何もしてくれなかった」と泣き言を言うかもしれません。そこに救いはないのに。「学校が何もしてくれない」からしてくれるのを待つのは違います。



しかも、いじめは不運では起きません
場のメカニズムによって発生する必然的事象です。
だからこそ、呻吟しながらちゃんと学習さえすれば次は避けられます

ただし。
ここに一つの問題があります。

いじめのきっかけはどうあれ様々な口実によって攻撃が行われる場合もあります。
たとえば「臭くなくても『臭い』と言う」ような悪口のための悪口があります。

だからこそ、
いじめられた理由は本人には届きがたい。
これがいじめられる人がいじめられ続けるもうひとつの理由です。



それでも、理由を知れば「いじめられっこ」は戦う力を持つことができる。
しかし理由をしらなければ、「いじめられっこ」は戦うことさえできない。

これがどれほど怖いことか例えて説明します。



あなたは実家暮らしの小学生です。
朝起きて顔を洗ってトーストの匂いのするダイニングに行きました。
そうしたら席につくまえに親に殴られました。
朝食の味はせず、親の顔色をうかがってもずっと睨まれるだけ。
話しかけても返ってくるのはふだんの素行についての重箱をつつくような不平不満。
でも学校からかえってきた夕飯では殴られることなく、ほっとして就寝しました。
でも次の朝の食卓でまた殴られました。
次の朝も、また次の朝も。

それでもダイニングに続く扉を開け続けられますか?

でもそれを見ていた神様が「おはようって言わないからだよ」と
しっかりと正確に教えてくれたら?

あなたはすくなくとも選ぶことができます。
自分を反省し、ダイニングの扉を開けて大きな声で「おはよう」と叫ぶか。
それとも、
ヒステリーの親を見限って、玄関から飛び出すか。


ただしここにもう一つの問題点があります。
この二つの選択肢では解決しない本人の問題があったら。

あなたはけっして意思疎通の上手な子ではない。いやそれどころか、
発声に困難を抱えており「おはよう」という言葉さえ上手にできないことが
生まれてからずっと親に忸怩たる思いを抱かせてきたかもしれない。
近所付き合いの中でママ友仲間に嘲るように指摘され、
それが劣等感になったことがきっかけで、今回の理不尽な対応に及んだのかもしれない。
大声で上げた「おはよう」という奇怪な絶叫は家庭内暴力を発展させるかもしれない。

それでも、それが身近な世間と衝突するトリガーならば伝えてあげるべきなんです。
伝えてもらえなければ、永遠に世間の壁にぶつかり続ける異人として生きることになります。

もちろん現実に神様はいません。
だから、その子は家庭内における育児の限界点を超えて、
児童相談所を通じて新しい家庭へと移されることになりました。
新しい家族は事情を知っているし、定期的な所員の訪問も約束されている。
だけど本人には「なぜ捨てられたのか」の詳細はもちろん伝えられていない。
伝えられないまま、自分が何かとすれ違っているという実感を持ったまま来てしまった。

朝起きて、顔を洗って、ダイニングのドアノブに手をかけて。
実の親に殴られ捨てられたのがなぜかもわからないまま、
その気持ちさえわからなかったのに何も知らない他人の待つ新しい世間へと届くドアノブを。
心の強さ程度で回せるものではないんですよ。




だから、いじめられた人間の多数は他人との接点をもちがたくなります。
あるいはそれは不登校という形をもって

自分がどんな人間かわからないから。
どうしていじめられたかわからないから。
でもなんとなくはわかっている、自分に原因はある

それでも周りが、「あなたは悪くない」「あなた以外の他人が悪い」と優しい言葉をかけるから、わけがわからないまま、この世界には不条理があるんだという結果しか残らない。


理由もなく虐げられるような世界で生きていきたいと思いますか?




いじめの理由をどう伝えるかは難しいし、
それを知ることは「集団」に属する人間にしかわからないものです。
重要なのは、いじめた人間は無関係の人間には軽く打ち明ける傾向があるということ。
「あいつ、自分のカンニングを俺になすりつけるようなことを言ったんだ」とかね。
鍵は「部外者」であり、「集団に属していた人間」だと思います。

冒頭の動画で、
「学校に行けない自分がキラい」と自殺した子は言っていました。 
「めんどくさい子」という文面もありましたね。

つまり、それが仮に悲劇に酔いながら出てきた言葉だったとしても、
この子は自分の非通常性に気付きかけていたことはまちがいないなんです。

自分を客観視しかけていたを今は感動ドラマの道具に仕立てられています。
「泣けるいじめドラマ」の主役として。


いずれにしろ冷静な部外者が本音をぶつけあわなければどうしようもない部分なんです。口をつぐんではいけない部分なんです。
だれもかれもが理解者を気取るのではなく、『他人』が必要とされています。







⑤ 無知な善人に踊らされず自分のための知恵を持て

いじめられる人は特別です。
ゆづゆづのように新しい集団を制圧するほどのカリスマ性と能力を持っているなら、正攻法の大逆転もあるでしょう。むろん無理ですね、平凡な特別な人には。

しかし、そうでなくとも、幸運な他人と出会って
自分がどういう人間なのかを知れたのであれば、対策がとれます。
そうして「特別な自分を知るからこそできること」が見えてきます。


選択することです。


もっとも理想的な選択は、
<足並みをそろえられるかぎりそろえるように努力しながら集団とつきあっていく>
ですね。それは自分の歩幅を知っていればできることです。
これでもう世間と衝突せずにうまくやれるなら幸運です。

あるいは
<自分を変えるために徹底努力する>
この例はラストに示そうと思います。



むずかしいのは、「今はそれはできないかもしれないな」と感じたとき。
「しばらくは自分なりの生き方でいくしかない」となったときです。

つまり、<主流をはずれることを覚悟する>となったときです。






"いじめは立場を持っている人によって行われる。
その場のルール・マナーを熟知し、
その場でチームワークを確立している人間が起こすものだ"と言いました。

同じように。

いじめの被害者がいじめられていても、学校に行かなくてはいけないのは

"家庭のルール・マナーに従い、
家庭でチームワークを確立しているから"です。

いじめられっこは
家庭というチームワークの末席として
自分で自分をいじめるんです。

遺書にもありましたよね?
「お父さんは学校に行ってほしかったよね」って。




わかりますか?
最終的にいじめの被害者が真に戦う相手は
家庭を優先して自分を迫害する自分です。
そして主流を外れるとき、その主流を決定していた
家庭の方針と戦わなければいけないときがくるということです。


しかし、そこにこそ希望はあります。
そこに打ち勝ちさえすれば、いじめは発生しません

そしてそれと戦う方法は、
自分がいじめられた理由をしっかりと知り、それにどこまで折り合いをつけて、
最後には家族の方針とどう戦うかってことなんです。
自殺は迫害の延長です。自分の頭で考えることをやめたから転校してもなお死を選んだんです。

部活のルールにてんで歩み寄れなかった娘さんを親御さんは
「生真面目に規則を守る子」
と評していました。それは家庭の集団のルールを守っていたという意味でしょう。
そして辛いそぶりを見せないという形で対話を放棄した。
だから自殺しました。 




今回の報道でわかりきっているいじめの原因がもう一つあります。
ですよ。
練習を休ませて旅行に連れて行ったのは親です。


この件で、経験則的に見えるものがあります。
親はもちろん生計をたてられる大人だから自分勝手を自力でカバーできる。
ただ、それに子どもを巻き込むことはバランス感覚が欠如していることに間違いないんです。

スーパーの行列を都合良く離れて、あとから戻ってきて『入れてよ』なんて、
よほどの立場がないとできないことを平気でやってるんです。
極端な話じゃない。りゅうちぇるみたいな甘えはやめろ。

すくなくともこういった態度を日頃からとる親のもとで育ったのなら
とらざるをえない生活をさせられていたのなら、
自殺した子もバランス感覚が欠如していた可能性は多いにあります。
そしておそらくこれは間違っていません。

大会に出たり出なかったりして、部活で立場を持つことは絶対に無理です。
どうしてそこにいるんだという異物であることに普通は気付きます。

自分の都合でふるまって、都合が悪くなれば周囲に足並みそろえてほしい。
そういう他者への無意識な過剰期待と常習依存の傾向があったのかもいれない。
親が周囲と連携するバランス能力が高くないことは、間違いのなかったはずでしょう。
そんな親を見ていたのなら、子どももそうである可能性は高いのです。

あるいは見方を変えるべきかもしれない。

「周りが助けてくれなかった」という遺書に見る他者依存も
「ちゃんと私たちの相談を重く受け止めてくれて対処してくれたらよかった」
という責任の見いだし方も、
「深く悩んで1人で抱え込んでいたと言ってくれなかったのか」と一つ屋根の下で不登校であったはずの娘への感想を実の親が述べたことも、
いじめ問題の解決にのりだしていた学校の両者和解の提案を打ち切ったことも、
縁を切って転校したはずの学校に責任追及の一報を叩き込んだことさえも。

たとえば旅行の時、部活を休もうというときになったとき、 
あるいは、親と子どもは学校の件について話しあわなかったんでしょうか?
それとも、話し合ってそれでいいやというのが親子の結論だった?
いままでも出たり出なかったりしていたから、それが当たり前の家庭だったから?
家庭の外のことは無視することが当たり前だったのか


親に悩みを打ち明けない、そんなそぶりも見せなかったと言うくらいに対話しなかったのは、親を傷つけたくなかったからなのか、それとも、言葉にできなかったのか、あるいは、言っても無駄だと思ったのか、そこまではまったく予想はできません。バランス感覚の変な家庭ですから、娘さんがどこまでそれを自覚できていたのかは不明です。


結局、わざわざ方針にあわない集団のなか
我が儘をつらぬいたこと、つらぬき続けていたことは事実です。


でもこれ自体の真偽はいいんです。
この仮定を理由に話をすすめるつもりもありませんから。
仮に親に問題があろうがなかろうが、出る結論は何も変わりません。






たとえば、自殺した子は、
いじめられて不登校だけど塾に通って受験するような子がいること
は知っていたんでしょうか。
そうしてその子が立派に大学に通っていることも…

学校には行きたいといっていましたが、
学校に行かなくていい道とくらべてどうだったんでしょうか?
今となってはわかりません。

塾通いの子は今はそういう生き方しかできない」と覚悟した上でやっていました。

ひとりよがりで楽できる方に逃げて逃げつづけて、その先に運良く優しい人がいたら、
その人に依存する。そんなことをくりかえしているのではメンヘラと同じです。

しかし、さまざまな知識をもって世間を知り、進路を見比べれば、
いつか自分なりの進路があるということも見えてくるはずなんです。
選択するというのはそういうことです。
「自分を変えない」まして「変えられない」のなら
知恵をつけなければ他人に迷惑をかけるだけです。


……

そりゃ大半の親は井戸端会議で当たり前のように
経歴をのべられるような子が欲しいに決まってます。
それを快く受け入れていれば、親をがっかりさせることはない。

でも、そんなふうに思って、何もしないまま、ずっと末席についていられることを願って、視野狭窄に陥ったまま、理想の子どものままでいられるかどうか
それができるかどうかはその子ども次第です。

子ども自身ができないと感じたら
たったひとりで親とさえ戦いをはじめるべきなんです。
そのために知恵をつけるべきなんです、自分をいじめる前に。

頭が悪いからいじめられるという言い方はあまりにも残酷ですが、
頭が悪いままでは自分をいじめることしかできなくなる
人間がいるのも事実です。視野を広げる必要があります。
他人には自分の感性は奇怪すぎて伝わらないかもしれないから。

規則を絶対守る子がいた、実際にそれが今回死んだ子です。
もしもその規則が間違っていたら自分で判断するしかないんですよ?
世間と乖離するその規則は、社会全体という集団のルールを破る可能性さえある。


私は、自殺した子が、転校後でさえも、
LINEの通知を確認し続けていたことも気になります。
ステータスメッセージに悪口を書かれてそれを見て落ち込んだってことは、
友達一覧に自分をいじめた子たちを残し続けていたってことですか?
いくらなんでも集団への接し方が不自然過ぎる。

それに、親に向けた遺書ではじめて部活が理由だったと述べられたということは、それなら今まではなぜいじめられたのかだれもわからなかったということですよね?

問題解決に学校が動いて、当事者が謝罪して、転校して、本人はその間もずーーーっと黙っていた。
それをして「 だれもたすけてくれなかったな。」 という思いを抱えながら。
まさか、何も言わないで気持ちを察してくれると思っていた?
学校が怖い怖いといじめられた理由と向きあうことなく怯えたまま、不登校を理解して欲しい理解して欲しいと居もしないもしないだれかに願いを託しながら。

これほど他人任せな思考停止私は「悲しい」という感情を持つことはできません。




ああ、ちなみに身体をデカくしたり武術をならってもたぶん無駄です。
孤独なままでは「補導」や「退学」といった、社会集団からの逸脱まで覚悟しなければ発揮されませんから。
むしろ道を外すどころか、それでも「何も変わらなかった」かもしれません。相手によっては殴り合うことで集団の一員に認められるかもしれませんが。
しかしやはり知恵こそが確実な武器です。

学校にうまく通えそうにないなら、保健室の遅刻と早退をくりかえすようなスタイルでもいい。おかしな生活でも、自分の性格さえ見定めていれば耐えられます
自分に合った生き方とは、どこかの集団に肩代わりしてもらうことではなく、自分の案配で適したグループに近づいたり離れたりをくりかえし続けるということなんです。
そのバランス感覚を養えなければその人はいつかまた排除されます。
知恵さえあればその正しい指南役を見つけることだってできます。


追い詰められた子どもにはそんなこと無理?
いじめポルノにわめいてるだけのお前が何してくれんだよ。自分でなんとかすんだよ。





……もちろん
自分なりの生き方をいつまでも他人から許してもらえると思ってる
甘えたやつはまたいつかかならずいじめられますけどね。

世間と自分の距離感を知れ。ってことです。

また集団に合流するとき、
自分を律せるような年相応の知恵を得られていなければ…
ただの年をくっただけのおおきなこどものできあがりです。
社会人の自殺が報道されない理由はそれもありますよ、もちろんね。


自分の世間とのバランスを認識していれば、適した集団を選ぶことができる。
虚弱体質の肥満老人がスポーツインストラクターを志すのは自己認識が甘いのは当然。

同じように……まさかこんなことになるなんて思っていなかったにしろ、親のバランス感覚をつらぬくならば部活より休みの都合が付く民間のクラブが一番合っていたのは本当なのですから。


「いやぁ、うち夏休みは遊びにいきたいから、部活よりクラブの方がいいんだよね」
と自分の意見を言える子なら攻撃されたりなんかしませんでしたよ。






最後に。
第三者ができることは、
「泣けるいじめ」を消費するだけではなく、
いじめられる理由を冷静にケーススタディしてあげることです。
そして、関係者たちが事後に授けられる知恵をもっとつけること。

不運=いじめなのだとすれば、その原因と理由をはっきりさせたとき、
いじめはその人の人生のテーマにすがたかたちを変えることができるはずです。






かっこいい……。













[閑話]
いじめられた子の逃げ場を作ろうってことに関してホームスクールのような制度が日本にあればなって思ってる人はいると思います。それ、実は日本では通信教育の制度をうまく使えば擬似的に実行できるんですよ。そういうシステムつくってみたいですねぇ。 

[閑話2]
私は前の「児童書」の記事で言及したようになにかとキッズとの接点の多い人生です。
野獣先輩のアイコンを使って深夜までLINEをするような子たちの実態は
言われるまでもなくわかっています。そこで罵詈雑言が飛び交っていることさえも。
ぶっちゃけそれを見て私も爆笑してますけどね。
それで一言いえることがあれば、LINEは集団生活の延長に過ぎないので、
そこに原因はなにひとつありませんよ。

2018年11月6日火曜日

グリッドマンのヒロイン抱き枕は結局、アニメや女性をナメているのか否か業界人が答えてみた。





家の前の公園にホームレスが住み着いているんですが、
きのう野良猫に餌をあげていたんですよ。
金銭的に猫に餌なんてあげる余裕あるのかなって思ったけど、
よく見るとだれかがこぼしたパンくずをかきあつめたものをあげているみたいで。
あれも彼らの生活の潤いなんでしょうね。


……そんなことを思いました。





arrow1953.hatenablog.com


はい、今回のトピックスはこれ。
いかにもtwitterでバズりそうな話題ですね。


この記事の執筆者を槍玉に挙げるようで申し訳ないのですが、
結論としては「どこからどう見ても汚れた大人向けのコンテンツだ」です。

つまり、健全なヒーロー作品や健全な性別の扱いを見たければ
まっとうなキッズ向け作品をえらんで見ればいいという結論になるんです。


なのに……
どうしてこういった話題がいつも上がっては消えていくのか?


それは「ファンがプロの心理を理解できていないから」です。
「アニメを舐めている」という美辞麗句に熱くなる時点でもうIQが違うんですね。


――というわけで、プロとはどういう心理でコンテンツを展開しているのか。
そうして最終的に扇情的な抱き枕のようなコンテンツ展開をするに至るのは
どうしてなのかを長々とご教示してさしあげようかと思います。



あ、この先のお話しに文句がある人は
・コンテンツプロジェクトの監修・プランニングにたずさわる。
・脚本をこしらえて声優と仕事をする。
・ゲームのキャラをデザインして発注、メインシナリオも執筆する。
・映像化作品の原作者になる。
この四つすべてクリアーした人ならモノを言ってもいいですよ。




ときに
私のように原作・企画などといったコンテンツの運営側に回るための
必要不可欠かつ最低限の能力として、わかりやすい例を一つあげたいと思います。

職業作家でそういう力を持っていることは当たり前なので、
ゲームプランナー・ディレクターの側面から語りたいと思います。

日本が誇る基本無料RPGのプランニングにかかせない追加キャラ
この金を回させるキャラのデザインをして発注して収録して…をくりかえして、
タイトルリリース前に追加キャラを一年分ストックする能力は当たり前に所持しています。
イベントのスケジューリングもしながらなので、キャラを追加する順番もある程度決めています
そうしてそれを実際に実行できるレベルまで持っていくんです。

成功するかしないかは別として、
シミュレーションできなければまず成功はありません
「何を売るか」「どう売れるか」を運営側は見定めていうということです。
もちろん、ファンにはコンテンツと出会ったと思わせなくてはいけないから、
最初からターゲットにした上マッチングしてあげたなんて口が裂けても言えませんが。




では、企画者がグリッドマンをどう回そうと思ったか。
を手始めに知ってみましょう。


ネットを通じて業界に精通するようになったファン。
彼らも虫ではないんですから、反射だけで飛びつくわけではありません。
安心感があってはじめて抱きついていく赤ちゃんのようなもの。
これはあなたのための作品なんだよ、ということはあらかじめ伝える必要があります。
この作品のターゲットである人たちは、『グリッドマン』について、
『汚れた大人たちが下心をもって接していい作品だよ』
ということを、放送前から察していたはずです。そのように伝えていたんですけどね。ビジュアルや放送時間帯や放送前の広報展開などによって、相互理解を育んでいったわけです。

この企画のアプローチの方法はわざわざ説明するまでもなく王道です。
身近な例を挙げると八頭身猫娘でチャームをかけた鬼太郎と同じやり方です。

www.toei-anim.co.jp

どういうことかというと
普通の人は絵に『シコリティ』は感じません(笑)
それを反射で察知できる人種を呼び寄せて
コンテンツの間口にすることが目的の集人灯であることはそもそもからして明白です。

八頭身猫娘(+鬼太郎ヒロインズ)だってもちろんそうです。
「猫娘を数話連続で登場させないこと」
がコンテンツの話題になるくらいですから。

とはいえ、ジャンプの新連載でさえ初回にはお色気を入れるのがセオリーです。
下半身への訴えは導入に使える最も容易い方法なわけです。



でも、これはあくまで導入のお話です。


だから「えっちな抱き枕」もあげるよ。

と飛躍する理由を知りたいわけじゃないですか。
もちろん商売になるからやってるんですが、
問題は、それを売ることと買い漁ることがなぜ当然になってきたのか
コンテンツ展開としていくらなんでも不健全すぎないか。ですよね?
一般的ではない人間相手の商売なのは事実だけど、
衆目の触れるところでやることではない、過剰サービスだと。

さきほどジャンプの読者サービスを例に挙げましたが、
ラブコメやアダルトコミックでもなければ、
そんな読者サービスは最悪初回の1話だけでもいいんですから。
その後、健全に売ることだってできるわけです。


しかし当該作はニチアサでもなければジャンプアニメでもない。
「児童向け」や「一般(笑)向け」の題目がないので、
いちど食いついたら見逃してくれないわけです。

アニメキャラに股間を密着させてくるような人に気をもたせたらそりゃそうなる。
イケメン俳優や美人女優で人目を引くことはまるで違います。


そしてこのプランのセオリーとは、
「作品の呼び水に性的弱者を使った以上は、需要を満たしてあげる必要がある」
「そんな彼らをあなどることなく関係者として真摯に扱ってあげる必要がある」
ということです。釣った魚に餌をやることは当たり前なわけです。


そもそも私は導入だけではなく、グリッドマンはそういう売り方をするつもりなんだなと思ってましたよ。
だって、純粋なヒーロー性を求めるような作品に見えます?
画面の向こうがリアルに見えるのは、幼児までです。
とっくにその能力を失った大人に向けて作ってる作品ですよ、これ。
実写版のイメージ強いからでしょうが、冷静に見れば貞操ラインは『コードギアス』に近い気がしますね。



もちろん、一見柔らかく噛みやすそうなきらら系なども含めて
深夜帯アニメにそれを問うのはナンセンスではありますが。






――とはいえ。この件をふくめて、
業界全体でコンテンツの性的弱者商売が活発化しているのは事実です。

アダルト作品や、ラブコメでもないものまで、扇情的な展開をしがちなのか。
抱き枕のような作品の向こうに性的弱者の影をちらつかせる展開をするのか
どうしてもっと積極的にゾーニングして品性を保とうとしないのか

うるせえ素人と一蹴するのは簡単ですが
理由をご説明しましょうか。

新しいコンテンツが成功するたびに
二種類の弱者が殺到して
コンテンツのコミュニティが渋谷に変わるからです。

この言葉を理解するためには、
ネットユーザーの作品の楽しみ方というものを知る必要があります。
現代のコミュニティは往年と違いアニメ誌や同好会ではなくネット上に出現するのでね。
次はそれをご説明しますね。


ネットのメディアとしての能力は「発信力」と「インターアクティブ性」です。
リアルで語り合うのとはまた別のアプローチがあります。

そんなネットユーザーの楽しみ方とは、
売上だったり、PV数だったり、キャラ人気だったり、
同ジャンルの格差だったり、スタッフのパフォーマンスなどを気にすること。
すなわち、関係者になったつもりの夢を見ることです。

コンテンツの一部に融合したい、チームの一員になりたいわけです。
勘違いしてはいけないのは、彼らが期待しているのは双方向性ではないということ。限りなく少ない労力と才能でコンテンツに関わりたいということです。『艦これ』の例を見るように、自分たちのセンスを鏡写しにされたときには認知行動療法が始まる位なんですから。


コナンとか、グリッドマンとかもそうですけど
涙ながらに公式に訴えるって、自分の立場と労力を自覚してたらとてもできませんよね?
関係者のつもりでなければ。

あっあともう一つありましたね!なんか…お姫様的な?
公式が1コマで済ます程度の平凡な発想にみんなして乗っかっただけでしたね(笑)
鏡写しにされたご気分はいかがだったでしょうか。



とはいえ。
人気売上などというメタがネットを通じて目に見える時代、
だれの意見にも干渉されず空想世界と向き合い続けることは、
よほどの感性がなければ困難な時代になりました。いい年してるならなおさら。




じゃ、コンテンツの関係者って具体的にはどんなふうになりたいの?
営業、音響監督、ましてや字幕製作会社の人になりたいわけじゃない。

表現者です。
キャラや世界観を動かす力を持った人間。

そもそも見るアニメを選ぶということさえ表現なわけです。自分の気持ちによりそってくれる作品、キャラを探しているわけです。アニメに限らず全ての作品に通じるものです。

好きな作品からキャラを選び、推すことはかよわい彼らの自己表現なんです。カップリングなんてその最たる例ですね。
もちろん選ばずに否定することも。かたくなに選ばないことも選択ですよね。

だから、公式にもの申してまで、自分を表現してほしいと切に願うわけです。
あれは自己表現なんです。実写化や舞台化に文句をたれることも。
自分にはその資格と能力がないから、肩代わりしてほしくてたまらないんですよ。

彼らがえらんだ作品は、いまや自己実現するために選んだステージも同然なんです。
この作品はすごいって説明したい、ほかのだれかにも認めて欲しい
自分の感性はいまでも正しいんだって。





ネット上に渋谷を生み出す、
もうひとつの弱者の輪郭が少しずつ見えてきました。




現代という時代は表現者でなければ傷ついてしまう時代です。

ネットを通じて、どんな粗末なものでも表現することができるようになった。
そんな中、たいしたこともない他人がいかにも上っ面だけ気取った写真の一枚をあげたり、浅はかなフェイクエピソードの預言者になったりしているのをただ指をくわえて見ているだけではガマンできないんです。

アニメもしかり。
作品を一方的に与えられるだけではつらくなってしまうんです。

これはオタクにかぎったことではないですが、先にいったようにネットを通じるとメタ的なものが見えてしまうし、いい年してるなら尚更無垢に作品に没頭することさえ難しい。

何かを楽しむにも接点をもたないことには耐えられない、アイドルに握手や投票が必要なように。昔からコンサートが必要だったように。

だから、
表現者になりたい人たちがいる。
現実のアイドルと違って、コンサートや握手会で近づく機会さえないのだから。






表現すれば関係者になれる。
ジャンルの一人に、業界の一人に、作品の一員になれる――
与えられるだけではない強い人に。

いちばん簡単な方法としては、レビューすること。自分のつくったものではないにしろ、作品の選んで推すか叩くかで、作品に関われたつもりにはなれます。


でも……。

キャラや世界観を動かす方法がありますよね。


二次創作

キャラを描けるし、ストーリーや世界観にものっかることができるわけです……
つもりになれるわけです……

が。

「クリエイターでいないと傷つくから」やっていることなんです。
クリエイターでいることにアイデンティティを持ちたいからやってることなんです。
表舞台に立てないし、その意欲も含めて能力がないからやっているだけ。


そういう人が描けるものはそう多くありません。
じゃ、何ならできるかって?

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王道で見せることもできません月9の描写の方がはるかに上手です
表舞台にいない時点で、"独自"がないことはお察しなんです。


そんな普通のセンスの人ががんばって書いたもの、
労力だけを武器にできるものは何か。
オタクの会話は二つしかありません。
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そう。

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――オタクの歴史をふりかえってみましょう。
かつて劇場版ガンダムでは、新規に追加されたシャアの妹のシャワーシーンを拝むためだけに劇場に日参したひとたちがたくさんいたそうです。
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透けて見えるほどあきらかな鉱脈がずっと存在してきたじゃないですか。

だいたいずっと昔から、
創作弱者は性的弱者相手に
二次創作で作品の担い手のふりをしてきたじゃないですか。


コンテンツが人気になったとき、二つの弱者があらわれる。
まずあらわれるのが創作弱者
次に呼び寄せられるのが性的弱者です。

そしてこれらは一個人のなかに同居しているものです。
どれくらい絵や文が構築できるかで比率が変わるだけのものです。
創作弱者同士が傷をなめ合っていると同時に性的弱者同士が舐め合っている
地獄絵図なわけです。

創作弱者はパクり方にも手段を選べない。
非力な人間が『無意味な抵抗』をするか『殺す』しか力加減を出来ないように、
『意味のない描写』か『共有(エロ必須)』しかない。

性的弱者はそれでも選んでくれる。
金を出してまでクリエイターと認めてくれる。
性的弱者も相手をおだてれば…永遠のような下半身の寂しさを紛らわしてくれる。そうして表現弱者も半端な上に下品だと一蹴されるだけのものを受け止めてくれる彼らを求めた。痛い高校生が近所の小学生を集めて大将を気取るように…。


え? エロも表現だって?
いやね、下ネタや性癖の暴露とかってオタクの特性じゃないんですよ。
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【Twitterで話題】神田外語大学の飲みコールがアホすぎるw【OMMC姉貴・この世の終わりみたいなインスタ】





この自給自足の互助的介護関係は構図は昔からあった。
――が、ネットが生まれて、『表現者になれなければ傷つく時代』が到来した。
それで何が変わったのかといえば…

創作弱者の方が性的弱者に助けを求めて群がるようになった。
彼らとさえいればクリエイターであり続けて傷つかずにすむから。
そうして彼らをおだてることで性的弱者も下の寂しさを紛らわすことができる

互いに求め合って、表現の第一線に住めない田舎者
ストレスを発散するために、チカンするために、ナンパしてもらうのを待つために、
話題になったところに集まってさわぐ。つまらない人同士で。――そう。

いつもの渋谷のようにね






……
その副作用として何が起きたのか。

性的弱者はかわいそうに勘違いしてしまった。
自分の下半身を愛でてくれないはずのコンテンツまで気を持つようになった

寂しさにが彼らに注意欠陥の障害を起こさせ、
創作弱者さえをコンテンツの担い手と誤認してしまった。
自分によりそって性的弱者のための表現をしてくれるから
もちろん創作弱者は介護し続けるかぎりクリエイターでいられる。
なんて尊い相互依存。


これによって、ひとつのアニメコンテンツが世に放たれ成功したとき
何が起こるかというと、弱者の流入によってコミュニティはどうせ汚れるということです。

創作弱者は『共有』を訴えることだけが武器です。
コンテンツの母数が多くなければ弱いままなんですよ。
だから成功したところに、母数の多いところに行かなければいけない。
自称フェミニストが一言居士として注目されるべく話題作を槍玉にあげるように。
閑散としたハコの片隅、だれもこない即売会で寂しさを知りたくなんてないから。
世界に開かれているはずのネットの片隅、共有してもらえないものに依存して己の等身大を知りたくなんてないから。
そうして、コミュニティで祭りが起きるとき、何をしてもいいんだと思うようになる。
そうして、渋谷に生きている実感を求めにやってきた田舎者のように、やがて何もない地元に戻っていく。
――いつかまたあの熱狂に飛び込むぞと心に誓いながら。





ここで抱き枕を出すことの意味が見えてきます。


一つは市場原理。――祭りに酔った性的弱者がそれを買ってくれる
というわかりやすいもの。
二つめはコンテンツのゴミ掃除。――公式が最終回答を出すことで創作弱者を一掃する
というこれも妥当な落としどころ。劣化防止の外壁塗装のようなものです。割れ窓理論になぞられてもいいですが。

三つめは、この一つめと二つめの理由に踏み切るもっとも根本的な理由です。
公式が抱き枕を出そうが出すまいが、コンテンツは汚れる。
女児アニメでさえね。



ちなみにですが。
抱き枕のような介護用品のデザインが上がってきても、創作強者素面の塩対応ですよ。
とくにアニメのようなチームクリエイトなら、一緒につくってきたキャラとそんなグッズを同一に見るわけないじゃないですか。絵じゃん。
もちろん表舞台で戦えるクリエイターも30代童貞性処女な性的弱者は当たり前のようにいますが、やっぱりいるべきところにいれば気位は上がるものなので。
どっかのオンラインゲームを題材としたアニメのプロデューサーもキャラなんかじゃなくて、声優やリアル児童に発情していたように。(もちろん皮肉ですよ)


たとえばリアル渋谷に本社を置くサイゲームスの『ウマ娘』の件なんかも、
なぜ非公式の創作に釘を刺したかといえば
弱者にはエロパロしか能がないとわかりきっているからです。

同人市場の需要を満たしているといえば聞こえはいいですが、
他に稼ぐ方法はあるし、生み出す舞台はほかにも場所はある。
それでも彼らはクリエイターでいたい。
だから優しく警告したって、やり方がない。
他にできないし、やらずにはいられないから。
それでも、まともな人は相手にしてくれないから、そうするしかない。
コミュ障が話を広げられずに周囲の機嫌をとるだけのキョロ充と化すように、
それで白けない優しい同類と付き合っていくしかないのです。



簡単に言えば『コミュニティの一生』が作品上で起きるようになったってことです。



ここまで長々と説明しても、この弱者を理解できない人はいるでしょう。
理解できる人はここまで説明しなくてもわかるでしょう。
そんな異常な存在を当たり前のように擁しているのがこの業界です。
『汚れた大人たちが下心をもって接していい作品だよ』
という定型句がインプットされてしまっている人たちが……。

もはや老老介護同然の相互デミクリエイターズボランティア事業に没頭しなければ作品を楽しめない
観賞障害者というべき存在がネットコミュニティに発生しているんです。



そうして、
新しい集まりが開かれるたびに気の触れた弱者例のコールをさけびあわずにいられない世界。

俺の私の酒を飲んでくれ…
もっと飲ませてくれ…
飲んでなくない?Wow,Wow…

それが今のかよわいアニメファンが形成した文化社会の一側面です。


……
……


話は冒頭に戻ります。
性的弱者を甘い水で誘った以上、釣った魚に餌を与える義務がある
しかし現代はその必要性が高まり、コンテンツの品を捨てるラインも低くなってしまった。
それはなぜか?


野良の性的弱者たちに、潤いを求める創作弱者が拾ったパンくずを与えてしまった。
そうして、可哀想な性的弱者は飽食を覚え、同時に飢えを知ってしまった。
そんな彼らは、おだてれば本物のクリエイターさえ自分のために動いてくれるとまで勘違いした。
人間は求めればみんな餌をくれるのだと。 やがて、餌を与えてくれないのであれば、不買運動さえするなどとさえ言うくらいにつけあがってしまった。

しかしさすがにそこまで暴れるのはかわいそうな人でしょう。かわいそう。
公式にカップリングを非難したり、ゴミを公式キャラにしろと訴えたりってのも加えて。

ただですよ。
そこまで極端でなくとも、物寂しさを感じた人はいるはずですよ。

それは、その点は、業界が向き合わなければいけない介護の責任です。
だから応えられるなら応えてあげるんですよ、ターゲットに利用した以上はね。



え?
公式が、プロがこんなあこぎなことをするな、と思いましたか?
そいつらをターゲットにするような作品を作るなって?
遠吠えは勘弁しろよこどもおじさん(おばさん)

……ときに『大人』というのは。

困難や嫌なことがあったときに
「わからない!」「いやだ!」「知らない!」
といって退行してやりすごしているかぎりは踏み入れられない領域です。

いやなことがあれば逃げていいよ、なんて軽々しく言えるネットとは違います。


やりたいことや、やるべきことのある人が、「わからないこと」や「いやなこと」や「知らないこと」に対して葛藤しながらも、選択するたびに形作られていくものです。
プロというのはそういう人たちです。
葛藤して選択する人間がプロです。ファンとは違います。

いくらアニメというオブラートの表現にたずさわっていたとしても、
依存するだけの人とはちがいます。

「アニメ」を作ると決めた以上、どう売り込むのが最善かと考えた以上、
作品の魅力だけで売れるはずだと手を尽くさない事はむしろアニメを舐めています
そして、
作品を成功させる以上、弱者が徘徊するリアルに踏み込む覚悟はあるということです。

葛藤するたびに選択を重ねるから「昔言っていたこと」「やっていたこと」と違ってくるのは当たり前です。何もしない人間だけがいつまでも同じことを言い続けます。
生業にするということはそうではないんです。

汚れても粗相を世話するくらいの介護の知識はある。
汚されると嘆くことが共感を生む程度の場ではないんです。

当該作さえ自宅介護用のオム…いや二次創作のガイドラインだってだしてあげたじゃないですか。
おそ松やけもフレなんて最高にうまく弱者に媚び売ってたじゃないですか。

ここまで長々に語ったことくらい、
表舞台の第一線でやっている人たちは当たり前に持っていますから。
自転車操業でお色気アニメ連発するようなスタジオ、IPのガチャゲーしか出せないところはどうか知りません。





以上、福祉の現場からお送りしました。







ところで抱き枕は女性を舐めているかどうかという事ですが…
品に欠けることはまちがいないんですけど、私から一つだけいえることは、

ここまでの話、
男性向けだけの話じゃねぇから。

ってことだけですかね。




もう説明することもなくなりましたね。

ちかごろは自称イラストレーターやアニメーターの愚痴が多いのもうなずけます。彼らはもののいえない企画下のブルーカラー。海外の作画担当の呼び方を使うなら『なぞり屋』、創作者ではありません。庵野監督のように表現できるものがある人はだれかに認められ独り立ちします。そうして自分のコンテンツを原作レベルから構築していけるんです。

ぱっと思いつくかぎりでは相田裕さんや羽海野チカとか。第一線に立つ能力のある人は模倣の重要性を題目にいつまでも申し合わせ済のゲームは続けません。まずは自分の適正価格を考えてみたらいかがでしょうか。その上で自分を売る先を見定めてください、プロになりたいのだったら。

それを思うとSNS――特にTwitterなんかは。
『社会不適合者の愚痴』や、
『山もオチもない恋愛シチュエーションの披露』、
『売れない底辺自称作家の日常公開』、
といった表現が漫画形式で広がる傾向がありました。
そしてそのほとんどが実際に市場に出したところで相手にはされませんでした。

彼らは弱い人なんです。
同じように弱い人の共感を得ることでしか訴求力をもてないんです。
いい年してたくさんの作品とすれちがっていれば、自分の感性が磨かれ、
自分だけの表現をつくる能力など磨かれていく。
それができなかった、見たいものしか見れなかった人たちです。

そんな弱い人を相手にするのさえプロの義務だと知っておいてください。



いずれにしろ。
それらの弱者は業界が利用してきた奴隷です。
ただ、その歪みが実際にそろそろ目についてきたのは事実ですね。
関係者面の奴やミソジニー、ミサンドリーが暴れ始めだしたのも世の流れでしょう。
今回の円谷プロの動きや、先述したサイゲームスの件をはじめとして、
もちろんそのあたりの歪みの是正を意識して動き始めていますよ
本能で察知できる人は薄々づいてるとは思います。不買運動をはじめるくらいにはね

飢えに狂った野良猫だって寄る辺がなければ孤独に適応します。
ホームレスには公園に居場所がなくなっても、いままでのように
東方艦これFGOさんのプレハブがありますから大丈夫です。




そして今も昔も、野良猫とホームレスの乱痴気騒ぎを
プロたちはビルの上層から冷静に分析しています。












ちなみに…
あなたは絵描き?
それとも文字書き?
コスプレイヤー?
あるいは声真似?
それともネットのレビュアー?



そこのあなたは……見るだけ? 追いかけるだけ?
今の時代にそれはすごいことだと思いますよ。本当に。








[閑話]
模倣を卒業できなくても最悪コミカライズくらいまでは行けますよね。
あとは絵描きも文字書きも、パロ無しのエロでもじゅうぶん弱者の武器になります。
シチュエーションだけで映像化までもっていった人だっていますよね。どうしてもオリジナルの看板が欲しいならそっちをオススメします。絵描きなら運が良ければ作家に目をつけてもらってジャンプでやらせてもらえるかも…。ただ、中抜きをクリアーにする術だけは学んでおかないと経歴にケチつく上に貧困に苦しむハメになりますよ。