2018年11月2日金曜日

絵本・児童書の“萌え絵”論争は、若者の理解者気取り合戦だ


絵本・児童書の“萌え絵”論争――「子どもに悪影響」の声に、児童文学評論家が反論
https://www.excite.co.jp/news/article/Cyzowoman_201810_post_206184/


はいこのトピックス。
結論としては「センスの新旧で語るものではない」です。

おっさんおばさんあるいはオタクが若者の感性を理解したつもりになりたくて
勝手に御旗をふりまわしてるだけのトピックスの一つですね。

にしてもセンスの新古に流される大人ってださすぎませんか? いい年して。
もうその判断がつくほどニュートラルな感性が残ってるわけでもあるまいに。
変化するものをちゃんと見つめて、あなたの価値観を語って下さい。

出版社の営業の人なら別にいいですけどね。売るための努力ですから。

とはいえこれだけだとただの個人攻撃なので、
語るべきものは語っておこうと思います。
ちなみに話のオチは

表現に適したものを1から作れ

ってだけのことを長々と語るだけです。



本題に入ります。

私はいわゆるアニメタッチの絵を描く人たちに仕事を恵む立場をいくつか持ってるんですね。ゲームシナリオライターだったりラノベ作家だったりってところです。
私自身も絵描きますがそれはまた別の話で…。
なので、いわゆる"萌え絵"…
萌えって表現にはもはや古式ゆかしさを感じますが…
ともかく、そういうイラストの使い方というものは熟知してる人間であります。


じゃ、それを児童書に使うと端的にどうなるか。

"気持ち悪い"といって距離を置く子が出てくる」

というまず一つの現実です。


記事のおばさん、児童書の業界には触れてるみたいだし、
子どもたちにアンケートもとってるみたいだけど、
一人の読者同士として子どもと話し合ったことってあります?

私は教育関連のお仕事で小中キッズと直に話す機会が死ぬほどあるんで、
ゲーム漫画小説なり同じユーザー目線でよく話すんですが、
そこで感じるのはやはりアニメ的アートワークが分ける文化の壁ですよ。


一つの例をあげましょうか。
小3の女の子を家庭教師で担当していたとき、私が持っていた「タイムスリップ探偵団」シリーズという児童書を貸してあげたことがあったんです。そしたらはまってしまって、親におねだりしてあっというまに第一部を買い集めて読破しました。
そしてぱたりと買うのをやめました。理由は「イラストが気持ち悪くなったから」。

例がこれです。










左が初期のイラストで、
右が変更後のイラストなんですが…
えっこの程度で!と驚く人はいるかもしれません。

突然絵柄が変わってしまうっていうところは大きいでしょう。
ただ、まあ、やっぱりある程度ああいう絵柄に"慣れさせられている"だけで

変なものは変なんですよ。

外見的魅力を極端に肥大化させた、一般的な描画とは程遠いアートワークってのは。
クソデカ目玉カラフルヘアー重力偏向機能搭載型ヘアスタイルの亜人が万年発情フェイスで外出歩いてたら引くでしょう?

それでも「いやいやこの程度で?」ってまだ思うでしょう。私も思います。
個人的には右側くらいのタッチのイラストめっちゃ好きなので。かおりもずいぶん可愛くなったなーと思いましたし。
だからこそ「この程度で拒否感でるの?」って。
たとえば人間失格の表紙を担当したこともある絵描きの小畑健だとか、顔のパーツからして極端じゃないし、一般的な画力をしっかりと持っているタイプの人です。この人もどちらかといえばそっち寄りだと思いますよ。

けどやっぱし不自然なわけです。

だいたい絵柄ってものはパッケージであって、
いままで魅力ある夢物語を描いてきた先人たちの努力があるから、
彼らの系譜に属するパッケージに夢を見るわけです。
このパッケージの向こうにも自分の求めるものがあるだろう、と。

…ただし、パッケージ"だけ"を見るなら気味が悪い部類に属するアートなんです。

キズナアイが五輪イメージにふさわしいかどうかって論争もこないだあったように
ああいうアートワークってのは「極端なデフォルメ」なんです。
きたないもの、なまなましいものを退行的に排除したオブラートの塊。
写実からのアレンジメントではなく漫画やアニメの影響をそのまま持ってきた"何か"。
人間ってものをこれでもかと単純美化したもの。
性的なものが突出していることにオタクだけが気づけなくなっているもの。
無理解だと思っている人たちに本質を見抜かれまくっているもの。
あえて悪し様に語るならこんなところでしょうか。
独特な表現なんです。

たとえばドラゴンボールやワンピースとは違う、
それとは違う「萌え」でたしかにひとくくりにできるものは存在するんです。


もちろんそれに夢を見る人もいるでしょう。
それに人生観を依存して、表現への否定が自己否定に感じられる人もいるでしょう。
SNSで趣味の合う人間となれあっていたらそれが世界の中心に思えることもあるでしょう。

しかし、極端さというものは偏愛をもたらす一方で、
もう一方には拒絶を起こさせるんですね。


萌え化した白雪姫と、従来の人を選ばないよう慎重にデザインされた白雪姫。
その両方を子どもたちのもとに持っていって選ばせてみてください。
前者を選ばない人間はかならずいます。

それはおそらく「後者の絵が好きだから」ではなく、
「気持ち悪い」からというマイナスの理由ではありませんか?

あるいは、「そんなものを選ぶような趣味だとほかの子に思われたくないから」、
ということかもしれません。本当は好きかもしれないけどね。
そういうのが彼らの機微なんですよ。


若者にフラットに受け入れられるという考えは幻想ですね。
人を選ぶ商品スタイルなんです。それを自覚しないなら推すな



あとねぇ、単純な話、やっぱし「途中で変える」からダメなんですよ。

たとえばこれ、角川つばさ文庫の怪盗レッドシリーズ。






こいつをいきなり国語の教科書のようなタッチにしたら
それはそれで逆の反発が生まれますよ。だって外見も中身も適材適所ですし。
(このイラスト担当、アニメタッチの絵描き特有のエロく描くしか武器がない
 習性をモロに出しちゃって二巻目以降でしっかり編集に教育されてて笑いました)



どういうことかっていうと、
たとえば「白雪姫」や「シンデレラ」を勝手にうわっつらだけ描き換えるなってことです。
元々の中身にすがりっぱなしで、うわっつらのすげかえでどうこうしようなんて、同人で二次創作やってんじゃないんですから…。

結局、1からそういう絵柄に向いてるものを作るなら文句はないんですよ。
正しい労力を払って挑戦してるってことになるんですから。




……そう、つまりは絵柄には功も罪もないんですね。

記事のおばさんは日本人のビジュアル的感性がどーとかほざいてましたが、
この人いちばんうわっつらに引っ張られて大事なところが見えてないんです。
てかコイツ児童書語ってる癖に海外版ハリーポッターのデザインとか見てねぇのか。

絵柄に焦点当たってる話題ですけど、イラスト担当は発注されて描くだけのいわばブルーカラーですから。動いているのは作家と編集側で、つまり企画側の問題です。
絵描きってクリエイティビティでいちばん非力な人たちですから、槍玉に挙げるのもちょっと可哀想ですよ。


…とはいえ、よし、ならやってやろうと思ってできることじゃない。
そして、出版側が何を仕掛けようが仕掛けまいが、読者は目の前にあるものの中から作品を選びます。
読者にとっては選ぶことが表現です。

だから、とりあえずは二つ並べておいてあげましょう。
広汎に通用する絵柄の本と、極端な表現の絵柄の本を。


彼らにとっての新古なんて明日には変わります。
それを無責任な言葉で肯定否定を流布してコントロールするのではなく、
流れるときを生きる未来の読者たちに、その瞬間瞬間に「選ぶ自由」をあげませんか?




そんだけの話です。

バカみたいに単純な話と思ったでしょう。
そうなんですよー、だからもう出版界で実際に前例ありまくりのことなんですよねぇ。
一般的な表紙と有名な漫画家を使った新装版を並べることとか、
あるいはアニメタッチの絵柄に合わせた大人向けラノベレーベルの存在さえも。
さいきんの日常ミステリーなんてどれもこれも漫画的ですしねぇ。

たとえば三姉妹探偵団シリーズとか、私はアニメタッチの新装版の方が好きですしね。
あれこそ女の子のファンタジーを描くる赤川先生の筆致とよく合ってますよ。

良いとか悪いとか新しいとか古いとかじゃないんです、たかが上っ面の話です。











まあ…あとは…
あの絵柄の向こう側、それがリンクする文化社会に、
精神的な性病の匂いをしっかりとかぎ取られてるんですよ。やっぱりね。

















←ちなみにイラストレーターは三代目に突入しています。





[閑話]
そういえば似た話題として、
英語の教科書にインターネットお絵描きマンが抜擢されたことありましたねぇ。
あれも発注した人が悪いです。
しかし、あの人、あの絵柄でなまじああいう公式の仕事しちゃうと変に気位高くなっちゃって大変なんじゃないですかね。良くも悪くも「拐かさない」と食っていけないタッチだとは思うんですが……

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