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2018年11月22日木曜日

芸能プロ社長の指図で鍋に顔を突っ込んだ男について思うこと



オフにテレビを見てたらこんなニュースに出くわしました。



てことで今回のトピックスはこれ。
たまには短文の記事を秒で投稿するのも悪くないかな、と。


この件を見てまず思ったのは社長相手ではなくこの被害者について。
いや鍋に顔突っ込む前に席を立てよ。
突っ込んでから訴えるんじゃなくて。
日頃の鬱憤をまとめて社長にダメージを与えてやろうと考えていたのなら別ですがそうではないでしょう。

「悪ふざけ」とは社長の弁ですが、保身の言い回しだとしても、
実際「悪ふざけ」です。受ける側がいるからこうなるわけです。
全方位に喧嘩腰: 八王子の中2いじめ自殺が、またいつもの「泣けるいじめコンテンツ」に変わっていくのを止めたい
以前この記事で語ったように、いじめは、いじめられる人間が自分の属する集団の末席に依存していたいからこそ起きることです。
良い大人が何やってんだ。
社長じゃなく被害者にいっています。生活のため? いやどうでもいいです。自分の都合です。社長がクズでもそんなクズに養ってもらっているのは自分です。

全方位に喧嘩腰: グリッドマンのヒロイン抱き枕は結局、アニメや女性をナメているのか否か業界人が答えてみた。
全方位に喧嘩腰: 〈BTS原爆Tシャツ事件〉から見る日本人の"韓国人化"のヤバさ

さきほどのいじめと同じく、ここらへんで共通して語ってますが、
アホをアホが受け入れる世の中です。
顔突っ込んで火傷までおってようやく泣き言をわめきちらすくらいなら、
その前に考えられることも選べることもいくらでもあっただろうが。
すくなくとも顔の火傷は回避できたでしょ?

2018年11月21日水曜日

〈BTS原爆Tシャツ事件〉から見る日本人の"韓国人化"のヤバさ



人間は常に沈下の危険にさらされている。
ただしその一方で上昇の可能性も目の前にある。
どんな現実の様相やシークエンスが、いつなんどき、
そのどちらに変わるかもしれない。天国と地獄、それは死後ではなく、いま現在にある。
抑鬱、それにあらゆる心の病は、沈下を意味する。では上昇は?
それはいかにしてなしとげられるのか? 感情移入をつうじてだ。
外側からではなく、内側から他人を把握することによってだ。
――フィリップKディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』より








なーんて意味深な引用をしつつ、
今回のトピックスはこれ。




いやね、意外でした。
これを日本社会全体が問題としてとりあげたこと自体がです。

「原爆酒」みたいにガチでシャレにならない件に比べれば、
頭の弱いジャリガキの粗相でしかないから適度に扱い易いんでしょうが、
それにしても、2年前の着衣の件をほじくり返して排斥するだなんて、
後光表現をかたっぱしから旭日に見立てて抗議運動を始めるような韓国の国民性のようで、
いままでの韓国にまつわる臭いものには蓋の日本的パターンとはちょっとちがいますよね。


まず一つめの提言ですが、韓国への反応はあくまでこれでいい。
『韓国』という国家を代表する人間が、一般的な社会性をもってテーブルにつくことは永久にないでしょうから、これでいいんです。
IQが違う相手と会話が成立しないように、良識をもって接することはただの時間の無駄にしかなりません。
地理的文化的に密接にしている隣国を「相手にしない」のも難しいですから。



ともあれ、このたびの反応は、「正しい」。
すなわち、日本国民が、韓国の国民性をある程度学習したということです。

ここに危険がはらんでいます。
今回の記事はその警鐘を鳴らすことが目的です。

相手を理解するということは、
自分のなかに相手の思考回路を取り込むということでもある。
それはたとえば、
「ミイラ取りがミイラになる」「深淵をのぞくときまた深淵もこちらをのぞく」
といったような言葉によってあらわされてきました。

先述したように、今回の日本側は韓国的な反応であることは意識しなければなりません。韓国の国民性がそうであるように、ヒステリーに狂うことがスタンダードだと勘違いしてはいけない。


ときに、バカのふりをしているとバカになる、という逸話があります。
これ、実は的を射ています。
人工知能は「帰納」と「演繹」なる思考経路によって成長する知的存在です。
しかし、それはもともと人間が言語によって獲得した能力です。
『帰納』=『特殊なものから普遍的なものを見いだす』人間の思考とは、
奇行の中にも自分らしさを見いだして、それを正常だと思い込むエラーをはらんでいる。

この理論が具体的に適用されているもののひとつは、
カウンセリングにたずさわる心理士です。
職業として精神病者の認知両療法に向き合うことになった人間がもっとも注意を払うべきといわれるものは、クライアントを傷つけることでも心的状況を悪化させることでもありません。なによりも、クライアントに影響されないよう距離を置くことです。

精神疾患を抱える相手を理解し接することは、
心理士の側にも強くフィードバックされる。
カウンセリングとは患者が病識を認知していく過程を併走する行為ですから、
同じ形で病的な思考をトレースしていくことになる。
仮にでもなんでもなく、病的な思考回路を一時的にインストールするはめになるのです。

異常心理はたやすくフィードバックされる。そのとき、心的健康を害すれば、治療どころかお互いに状況の悪化を辿ることになる。だから気をつけなければいけないのです。
クライアントから距離をとるためには、フォーマットを意識する必要がある。

異常心理を抱えた韓国をクライアントとして、
それを歴史的に介助してきたのが日本です。
クライアントに適応しはじめてきた今こそ「健康的な思考」のフォーマットを作る必要があります。












さて、こんな導入から始まった今回ですが、
いつもの業界人お試しパック(大増量版)=無駄な有識者と要約している筆者の長所を捨てて、本当の意味での有識分野である心理の面からお話ししていこうと思っております。


健康的思考のフォーマットを作るために、韓国の異常な国民性と、そしてなにより、汚点も当然抱えている日本人の心理傾向を客観的に説明しようかと思います。
全方位に喧嘩腰なんですから、韓国だけ叩くような心地良い記事じゃないですよ。

理想の自分を捏造する韓国の国民性と
理想の他人を捏造する日本の国民性と
その相性の最悪な良ささえ見つめ直す荒療治が必要になります。

いまのうちに今回の結論を述べておきますが、
日本が韓国に正しい反応をできるようになったのはだれかが「そうすべきだ」と国民が理性で判断したからではない。だいたい社会全体の反応とは、個々の理性など超越して起きる感情的反応の総体です。それが韓国の神経症的暴走に対抗するまでになった。
つまり日本の内面に韓国とタメをはれるくらいヒステリー文化が育ってきたということです。結果は正しくても、過程は健康的ではありません。そのことをこれからじっくりと説明していこうと思います。







① 韓国の国民性とは

韓国の国民性とは、虚栄心のひとことで説明しきれます。

この記事をここまで読んでいる方ならわかっているでしょうが、
これらの性質を示す好例として、

・整形大国
・起源主張傾向
・前大統領の社会的抹殺文化

わかりやすいところでこの三点を挙げてみることにしました。


韓国は説明不要の整形大国です。
美容整形の文化は日本にももちろんあります。芸能人が当たり前に美容整形し、液体注入などによるプチ整形が広まっている日本が何を言うかとおっしゃいますが、一般人の誕生日プレゼントが美容整形になってくる文化は並み外れています。部族の入れ墨と並べるにはあまりに劣等感に根ざしすぎた姑息な生き様ですが、それでも、個人的にはそれはそれでいいと思います。

ただ、それが祝福に値する社会から透けて見えるのは、
ありのままでなくてもいい
という精神構造があるということです。

「旅の恥はかきすて」という言葉がありますが、この旅を韓国にとっての一生に置き換えるとわかりやすいかもしれません。流浪の身ではなく一国家なわけですから、「なかったことにする」方法論が求められるわけです。
「自然」の恵みに感謝し、それを親からもらった肉体にもおよばせる日本の考え方とは対極にあるものです。


次に、起源主張文化。
これについては五輪を巡るコムド騒動を例としてあげましょうか。この騒動を乱暴にまとめてしまうと、「剣道の起源は韓国であり、父親な原点である韓国剣術こそが五輪の競技として採用されるべきだ」という韓国側の主張に端を発する論争です。

日本には「雨だれ石を穿つ」という諺があります。まったく同じ文脈で、語尾を「石を割る」とする英語圏の諺があります。むろんその意味は同じものです。
このように、同じ人間である以上、ある程度、この世界の森羅万象にむきあったときにうまれいずる文化に対する向き合い方というものはだいたい似通ってきます。

同じように、人と戦うため、あるいは獣を狩るために、全世界中のひとびとによって、まだ言葉もないころから鋭く研磨された武器がさまざまな形で生みだされてきました。その武器を扱い続ける中で効果的だと考えられたものは理論化され、いつしか「術」や「武道」の体系をもって結実することになります。剣道もその一つです。

そういう普遍的なものを「我らが特殊の発祥である」と考えがちです。
我こそ数多の文化の中心であるという自負を持つ中国などの国民性とも似通ってきますが、それらとは違うことは仮定を理論武装にしてくることです。すべては神が生んだものであるという信仰に近いものです。コムド関連の主張は宗教勧誘に最も似ています。

すなわちどういうことかというと、
物を知らない上に、物を調べない
ということですね。
この思考停止がどのような文化の流れを生むか、
それは韓国の国民の代表である大統領を見るのがいちばんかと思います。




前大統領の社会的抹殺。
韓国文化では大統領が交代するたびに、前大統領に社会的制裁に晒され、
政治の舞台から退場させられるのが常です。普通に逮捕さえされます。
これには二つの側面があります。

一人の人間の立場次第で問題であることを問題でなくすることができる

ここまでは日本にもあります。全世界の権力者にできることです。
ただしもう一つの面が問題です。

一人の人間の立場次第で問題ではないことを問題にすることができる

早い話が、司法行政を自分の都合でコントロールする独裁者が大統領になることが当たり前になっている国ということです。それが当たり前にくりかえされる文化圏、これがその文化圏の国民の代表です。

それが対日本にあらわれたのは枚挙にいとまがありませんが、
もっとも直近では徴用工問題でしょうか。

大統領の言葉によると当時の国際法は真実にあたらないそうです。一事不再理の考え方は国ごとなので反論として持ち出すのは妥当ではないですが、それをしてももはや司法を擁する国家の思考としては原爆Tシャツなんて可愛いくらいの狂気です。
"現実は固定化された夢のようなもの"というのは往年の『アナザヘヴン』の台詞ですが、
現実を明晰夢のようなものだと思っているのが韓国の国民性です。

これに異常と気づけないのが韓国の国民性です。
韓国の国民性において、唯一無二の真実などなく、恣意しかないわけです。
自分ののぞむものを具現化できると感じる、幼児特有の万能感。連綿と続く歴史や事実に目を背け、上っ面を糊塗することでそこに描かれたものに価値があると信じたい、信じている。彼らの人生観は夏休みの絵日記と変わらないわけです。

しかし現実を嘘でぬりかためた以上、本質的にはそこには何もなくなってしまって、虚だけがある。
それでも、なんとか虚を形にしようともがくのが韓国の国民性です。
韓国がロビー活動に熱心なこともなんとなく見えてきませんか?


……しかし、そんなものはおいそれと通用するものではない。
嘘を嘘と見抜けない人間――慧眼のない人間がいてはじめて通用する考え方です。
まがいものに価値をみいだしてとりあってくれる人間が必要なんです。



これは以前語った表現弱者と性的弱者の関係性によく似ています。
韓国にとって世界はコミケ、その国民性は二次創作で性的弱者にすがるしかない底辺の絵描き同然なわけです。



そうして、彼らは、虚を実として受け取ってくれる人間を捜し続けている。彼らはいつなんどきでもその機会を、その対象をうかがっている……。



……
……
……


過去の日本は「良識のある話し合いをしよう」と今まで韓国との問題解決の対話にのぞんできました。

論議というものは、互いの思想と互いの利害のつり合いを、
一般的な観念と良識を中心軸として行われるシーソーです。
韓国の場合、その中心軸が虚言もしくは信仰です。

原爆Tシャツを作ったメーカーはあくまで原爆の被害者を在韓と在日で分けて、後者を排除したように、感情的な発言を公のメッセージとして発することに疑いを持たない相手であるわけです。



…は? 韓国人にもまともな人はいる?
当たり前でしょう。

それでも個々の良識などたやすく押し流し、
カリカチュアライズできるほど一括できる全体行動のことを国民性というのです。
そして、大多数の国民はそれに準じている。サブタイプに希望を見いだせるほど社会のダイナミクスは容易くありません。


その証拠が韓国の愚かな面としてあげられがちな「火病」です。
この概念は本来は「文化依存症候群」と呼ばれているものの一種で、特定の文化圏において多く見られる精神障害の傾向を指します。
症候群の名のとおりに「文化が引き起こすもの」であり――それは、文化の病的な面が人間を通してあらわれたものです。

「火病」は乱暴な言い方ですが、そのありかたは集団ヒステリーです。
ヒステリーは欲求が満たされないときに起こるもので、ここで挙げるのは少々気が引けますが、もっとも純粋なヒステリーとは、自分で決めた物の置き方が崩されると泣きわめく自閉症児の混乱です。

ストレスで起きるヒステリーは個々の体験に依存する。
しかしそれが全体的に起こるとなると原因は先天性に寄ってきます。自閉症児が全体的な傾向としてその性質をそなえているように。
傾向としてのヒステリーとは、自分で決めた物の置き方しか耐えられない人間が起こすものです。

これが韓国の文化に通底した国民性です。

しかも、個々の傾向によって発達を鍛錬でおぎなえる自閉症児と違い、
国民性に個々の理性が介在することはありません。
永久に合理的に成長することはないんです。

良い面もあります。
スポーツなど過度な感情的集中を要する場であれば、彼らの感情が力に変わることもあるでしょう。でもまあ、しょせん娯楽です。たとえばサッカーが貧民の娯楽といわれがちなのは、貧民が成り上がれるからもありますが、たとえば英国で職につけない浅学な無職の若者が身の程を忘れて酒を片手に騒ぐためにすがるもの、富裕層や知識人は見下すようなものだからです。
娯楽は国家の価値など左右しません。あるいは精神的物理的貧困のバロメーターでさえある。『レディプレイヤー1』だってなにもない世界のすがる先がMMOでしたよね?
そういった娯楽を輸出して、偶像商売を得意していることは皮肉としかいいようがありません。日本のアニメーションという娯楽の根底を性的弱者が担ってきたように……。


そのように、韓国の国民性とは、
成長の期待できない末期的ヒステリー患者そのものです。

なぜ韓国には同レベルで対応するのが正しいのかこれで説明できます。
粗相をしたらダメだと身体でわかるようにひっぱたくしかないからです。
何が粗相もわからないのだから、噛まれたら噛み返すことで痛みを教えてやるしかない。動物がじゃれあいの中で甘噛みをを覚えていくように、動物のレベルまで落ちてやるしかない。あるいはもはやトイレすら学習できない痴呆の老犬かもしれないとしても。

そして、なにより大事なのは、今後いっさい韓国の虚無の二次創作を受け入れないこと。そこで一歩踏み込ませたら、パワー系が暴れ回るだけの地獄絵図が広がりますから。



……
……
……


ここまでは韓国の浅はかさを語ってきました。
しかし、他人を一方的に見下して気持ちよくなれるほど私は韓国的ではありません。
どういうことかって?
そんなキムチ臭のする同人詩に金を落としてきたのはどこのどいつだよ。
と日本の国民性を恥じ入らなければいけないんです。

表現弱者が、審美眼を持たない性的弱者しか相手できないように、
日本人もまた見る目のない知的弱者なんです。
だからここまでつけこまれているんです。



韓国に国民的風土病があるように、日本にも病はある。
それが日本の文化依存症候群、すなわち「対人恐怖症」。これが示す病的な日本の国民性こそが、いままで韓国をつけあがらせてきた原因でもあります。


私は、
"過去の日本は「良識のある話し合いをしよう」と今まで韓国との問題解決の対話にのぞんできました。"
と先述しました。
そして、
"論議というものは、互いの思想と互いの利害のつり合いを、
一般的な観念と良識を中心軸として行われるシーソーです。"
と。

しかし、それがうまくいかなかったのは韓国が狂っていたからだけではない。
日本の側にも一般的な良識などなかったからです。









② 日本の国民性とは

日本人の良識は歪みがあります。
ひとことでいえば、日本の良識とは卑屈さです。
つけこまれたのはそのせいです。これは、後に後述しますが、ネットに触れた世代が息苦しさを感じがちな面でもあります。

韓国が異常心理のトピックスを投げかけてくるとき、我々は少なからず反応せざるをえないときはやってきます。それが少しずつわたしたちを毒していくかもしれない。そのときに自分を見失わないために必要なものは、正しい良識を持つことです。


そのために、日本固有の卑屈な良識を解剖していきたいと思います


日本人の国民性は「調和」と「謙虚」でしょう。
日本古来の美徳として語り草にあげられる「江戸しぐさ」はその好例です。
互いに肩を引き、道をとおりやすくする
というものです。

ここで重要なのは
お互いに
という調和を前提とした文化だということです。










お互いに道を譲り合うなんて当たり前のことなのに
わざわざお題目をつけて掲げるのが日本の文化なんです。
ことさら「謙虚さ」を誇張し、これは粋だと悦に入るのが日本の文化の病的な面なんです。


時は巡りて現代日本においては、
道をゆずってくれた車にハザードランプで感謝を示すという
ドライバーの文化があります。これを見て「クールだ」という外国の方もいますね。
そもそも似たようなやりとりなんて世界中に自然と生まれますが。


しかしこれにはクールではない一面がある。
これが『申し合わせ済み』のお決まりの文化になったときに起きる齟齬。


道をゆずってあげてわりこんできた車が、ランプをつけずにそのままアクセルを上げて走り去ったら?「挨拶くらいしろよ」と苛立つ人はかなりの数にあがります。そういうルールに従って謙虚さを示すことが前提とされている文化だからこそ。

むろん、「挨拶をしたのに挨拶し返さない」、「助けたのにお礼をいわない」、そういった黙殺が失礼にあたるのは万国共通、文化人には当たり前のことです。

しかし、礼を示し合うことを前提とした社会行動を次々と生み出すのが日本の傾向です。

日本の江戸しぐさが「相手が肩を引かなければ成立しない」ように――
こちらが示した謙遜に対して、相手の感謝の見返りを求める文化が多くあります。

お歳暮も、ホワイトデーも、これらはなにもかもにおいて感謝の見返りを求める文化です。いや、ホワイトデーとか好きですけどね私。

ようするに、ドライなままでいることを許されない文化圏です。接客業の過剰な挨拶などを見れば、それがよくわかりますね。
りゅうちぇるなども我が道を行くならあそこまで叩かれませんでした。ドライでいることが耐えられないから、共感を必死で求めた結果があれです。


お歳暮にお歳暮を返すことが良識で、それをしないことは失礼にあたる。
そんな日本の良識とは、見返りを前提とした文化に立脚しています。
「江戸しぐさ」がそうであるように、自分が謙虚に身を引けば向こうも身を引く、そして心地良い公平な関係性が築ける。
それはすなわ、「見返りがあるものと確信しておこなわれる卑屈な行為」でもあるわけです。そうすることで対等になってくれるだろう、良い顔を見せてくれるだろうという上目遣いのごますりが日本の美徳の影には見え隠れしています。



日本の文化に依存したときに生まれる「対人恐怖症」。
それは「相手からの見返りを確信できなければ動けない国民性」のあらわれです。
自分の身の程など二の次にして、「自分にとって都合の良い人でいてくれるだろうか」ばかり気にして、一人一人の性格にしっかりと向き合えない。自分に合わせてくれるだろうかという甘えた考えを持ち続け、合わない人とは付き合えずに自分だけの世界で適応障害を起こした思考停止が日本の国民性です。相手の顔色をうかがうのは、それに合わせるためではなく、自分の理想とするパターンになってくれるのを待つためです。日本人がディスカッションしない、できない原因もこれですね。考えたくないんですよ、「優しさ」のやりとり以外。

そんな風に、死ぬまで相手の隣人愛に過剰な依存をし続けるのが日本の国民性です。





日本には「嘘も方便」という言葉があります。
物事を円滑に進めるためにはうわっつらの言葉も用いることがあるという意味ですが、

日本における良識とはまさにこの方便そのものです。
「自分が悪くなくてもとりあえず謝る文化」がありますね。こっちが謝れば向こうも気分を良くしてくれるだろうと思うのです。
そして、互いに笑顔になってようやく対等に会話できる。
――裏を返せば、そうなければ対話さえできない精神的な柔軟性の決定的な欠如があるんです。恋愛においても見合いが当然で、ゲームでも決まった選択肢を選ぶことでそれが恋愛の誤認として成立したように。始まる前から内容の決まった会議をすることが社会的な対話として考えられるように。


だから、責任の可否など考えもせずとりあえず謝る。
日本人は、善悪や客観性の判断を放棄して、自分の非をつくりだしてまで謝罪する。そうすれば、向こうは「いつものパターンにはまってくれるだろう」と甘く考えて。


「慰安婦問題」などがその代表例です。
韓国側のイキりっぷりったるや、そのうちクローンでも持ち出してくるんじゃないかと思う勢いですが――そもそもこの非をもちだしたのは日本です。

当時の国民が厭戦気分をぶつける先を探していたところ、日本のメディアが彼らに売れるトピックスのメソッドとによって持ち出したものがこれでした。
韓国がこれを受け取り、二次創作を肥大化させ、日本に対する交渉材料として持ち出すようになった。そこまではまだよかった。

そこで、
謝っていればいつものパターンにはまってくれて許してもらえるだろう、話はそれからにしよう。
と考えたのが日本の国民性がみちびきだした結論でした。
この流れは、昨今の筋違いのヘイトスピーチ制限が近いものがあります。こっちが黙れば、向こうも黙ってくれるだろうという上目遣いの猫撫で声としてはじめたものだから、本来の用途にくらべてはるかに卑屈なものです。

相手の要求を呑めば対等になれるはずだ…事実から目を背けて言葉を濁して金銭を与え続ければ、いつかお互いに笑顔の談笑のときを迎えられるはずだ…と。それが日本固有の、TPOを弁えず知的とはかけはなれた良識的な行動でした。

それがどうしていつまでも続いたのかって?
だって、いつも顔を真っ赤にしている韓国さんが、
「自分達がいけないことしました」って謝罪したら満足げな顔をしてくれるから。

――そうして、日本の国民性は、
対立を避けるため、ときには事実すら恣意的に歪曲し、
その物を調べることさえ放棄した。韓国がそうであったように。

良識のことを
優しくすれば優しくし返してくれる魔法の呪文
という思考回路のことだと気付くことができないのが日本国民です。

売れない作家が編集者に苦言を呈されたくらいでSNSで泣き言を喚き散らすように。
優しさを返してくれないことは良識的ではなく、罰するべきことだと思い込んでいるんです。
すなわち、日本の国民性は毎日でも幼児プレイをしたくてたまらない風俗通い同然なんです。



――まとめましょう。

優しくしてもらえるなら恥すらいとわない。
その幼児性が日本の国民性です。



主権を持ち得がたかった歴史から劣等感を育て続けてきた朝鮮民族の国家に突如ふってわいた、自分のプライドを満たしてくれるサンドバック。しかもそれはなぜか自分のことを叩いて欲しがっている。こっちが満足すれば向こうも満足そうな顔をしてくれる。つけあがるのは当たり前です。そうして、日本の卑屈な奴隷根性は、同じく隷属であり続けた韓国の恥知らずの虚栄と見事にかみ合いました。

理想の自分を捏造したくてたまらない韓国と、
理想の他人を捏造したくてたまらない日本が、
どちらとも等しく"現実"を見つめていなかったためです。
現実から目を背け、向き合って来なかったのは同じこと。奇しくも、他者依存の日本が主導権を与えてしまうことになってしまったというだけです。

すなわち、韓国の異常心理のひとつである反日傾向はそもそも、
日本の思考停止とかみ合って生まれたものでもあるのです。

死ぬまで幼児プレイをしたい国民性を持つ日本人が、
すりよった相手はただの自分に甘いだけの虚言癖のメンヘラでした。

……そして、カウンターを始めた現在の状況。
それを公平な目で見たとき、日本人の態度とはこういうものです。




虚言症の病人に勝手にバブみを感じて、
相手が良識ポルノを一緒に楽しんでくれなかったから
今さらになって逆ギレをはじめている。

――それが今の日本人の反応の客観的な見方です。

帰納という思考によって、特殊から一般をみちびきだす力を持った人間は異常な精神構造をもってなお理性を同居させうることができる。
統合失調症患者が「集団ストーカー」という形で自身の異常性を理性で自己理解するように。

ゆえに、異常過ぎる韓国の国民性のなかにも微かながら理性は残っている。そんなわずかな理性を通じて日本人はそんな異常者として見られている。そしてそれは事実なんです。

日本人にとっての良識が
相手の顔色をうかがって
出したりひっこめたりするまがいものものだったから
こんなことになったんです。
やらせ番組のメソッドを言論の場にすらもってくるのが日本人だからなんです。


韓国の虚栄が同人誌なら、人気次第で出したり引っ込めたりする
日本の良識さえも中身もなにもないご機嫌伺いの二次創作にすぎないんです。

どっちも空っぽなんです。頭の悪い人間がそれをもちだせば、日本の「和」は「パターン化」、「謙虚」は「ご機嫌うかがい」にすぎません。

私は冒頭で対韓国問題の反応はそれでいいとはいいました。手遅れだからです。もっといい方法だってあったに決まってるだろうが。







③ 良識とは

ネットを通じて、日本土着の『良識の和』から逃れた新しい世代が、
少しずつカウンターをくらわせるようになってきた。そのひとつが今回の事件です。

まあ、それはいいです。
注目すべきは、メディアがこの件を隠さず扱ってきたこと。
すなわち、『新しい世代に売っていくトピックス』と知ってきたからです。
戦争の気運を高め、反戦の気運につけこみ、公平性などなく売れる思想を売り続けるメディアは次の世代への売り込みを考えはじめています。
これからは一過性の過熱ではなく、韓国へのカウンターの流れは本格的に根付いてくると思います。これは韓国問題の対症療法としては大事なことで、対外意識を正常化するためには必要なことでもあります。




ただし……
今回の事件を客観的に見たとき、
日本は韓国と似通った精神性があるがゆえに、
気色悪い相似形の流れが生まれつつあるなとも感じます。



他者への侮蔑で劣等感を慰め、相対的な誇りでなんとか自尊心を生きながらえさせる――精神の自発呼吸を失った人たちのようにはなりたくはないでしょう。そのためには、恣意的に出したり引っ込めたりする良識は捨てなければいけません。そろそろ現実に向き合わなければ、精神性はこのまま韓国に近づいていくことになります。




いやいや、日本と韓国では立場が違うじゃあないか。そもそも韓国はWW2における対戦国ではないのに戦勝国ぶっている、おかしな連中なのだから。そんな論調を見かけます。
妥当な反論ではありません。
ネットを通じて、日本土着の『良識の和』から逃れた新しい世代ならわかるはずです。



鼻につくタレントやメジャーなコンテンツがスキャンダルを起こしたとき、
当事者でもない一般人がネットを通じてつぶやくあの言葉。
「おまえらまた勝ってしまったな」
あれですよ。無関係だからこそ出てくる、自尊心だけ満たせる心地良い考え方。

韓国は日本の統治下にあった時代をなかったことにして、
そうして言いました。「勝ってしまったな」と。

自分たちが勝ったわけでもないのに勝利を感じ、その証明として謝罪を求める。
それはさまざまなニュースでも感じませんか?
なにかと謝罪を求める国民性は日本にもともとありました。謝罪させることで溜飲がくだり、そうでなければ身の程知らずだ、反省していないと見下す。
これもまた隣国の行動とかぶりませんか?

日本と韓国がかみ合ってしまったのは、もともとから似通っている部分もあるから。そこから目をそらすことは非常に危ない。かつて勤勉と拘りで知られた日本の企業が起こしている諸問題さえそれに通じてきていると思いませんか?









――
私が恐れているのは、日韓を結ぶプライドの接点が逆転して、
日本人に浅はかな韓国的勝利体験が逆流してくることです。
情勢的に見てもこのままなら日本は国家として韓国に強く出続けることができるでしょう。日本の現政権の外交手腕は卓越しています。しばらくの間は問題はないでしょう。国民はそれに準じます。ただその結果として、かつての韓国と同じように、日本人が勝手に勝利体験を味わってしまうと第二の韓国文化が生まれかねない。

昨今の日本人・日本文化はこんなにすごい系の自画自賛番組の流れだってそうではありませんか?あれはまさに感謝の見返りを求める日本の病気と、虚栄を求める韓国の病気のハイブリッドですよ。

日本の敗戦国の劣等感と韓国の歴史的属国の劣等感は非なるものなれど劣等感です。揺り戻しはあって当然ですが、着地点が同じでは目も当てられません。




日本は「調和」の文化を生み出して続けてきました。
それが成立していたのは、調和のルールは先輩に手をとってみちびかれるなかで伝えられ続けてきたからです。
しかし、それは、ネットを通じて情報を収集し、効率的な行動をとることを基本とする現代日本の論法とはそぐわない。この新旧は結びつきがたい。消えていくものも新しく生まれるものもあるでしょう。それは憂うべきことでも喜ぶべきことでもない。


――この問題は、
日本の悪しき良識とともに、
その基準さえ薄れてしまったことです。

ネットというものは、「自分の見たいものを見る」というものです。動画のCMが僅か15秒でも視聴者にストレスを与えるというのはマーケティングの常識です。それが生む人間の精神構造は、自分の心地良い情報を取捨選択するということ。意図的なカットアップによって都合の良いストーリーさえ組み立てられる。

韓国の国民性がそのようにしてアイデンティティを構築していったように。

SNSでバズる漫画などに見られるように、自分は無垢な善人だと思い込んで、傷つけられたことを精一杯訴え、傷つけた相手を侮蔑したい人でいっぱいです。
どっかのバカがアルバイトはあくまで補助でなければいけないとありもしない労働法解釈を披露して、それにバカなフリーターどもがとびついた話題もありましたね。
そうしてなんとか自尊心を満たしたくてたまらないんです、仮想の敵を共有してくれる馬鹿と一緒にそれを打ち倒すことで。
バカ同士で共有すれば、いつかそれが真実になるなんて甘い考えは、まさに隣国の悪癖そのものです。現実を見ていない。
この先、韓国を叩くことで自尊心を得る、それを求めて情報を取捨選択する流れは増加していくと思います。しかたないことです。韓国にとっても自業自得です。


今回の件はそのはじまりのひとつです。
考えもなく原爆Tシャツを着ただけの雑魚を叩いたこと、そのトピックスを追ったことで、あなたのなかのなにかが満たされた感覚はありませんでしたか?
典型的な間抜けを見下すことでいままでの劣等感が癒されるような感覚は?

それを否定するわけではありません。
ただし、それによって自分を見失ってはいけないといっているんです。

あることないことを都合良く解釈し、期待し続ければ、やがて現実との摩擦でヒステリーが生まれます。少しでも傷つくことが耐えられない病的な一部の女にセクハラという使い勝手の良い良識を与えた始末が今の日本のフェミニズムであるように。
彼女たちは自分が少しでも傷ついたとき、それを使って謝罪と自粛を求めます。韓国人のように。謝らせることが勝利だと思っているのは、日本人だって同じじゃないですか。


そんな人間にならないために必要なたったひとつの態度。

それは、良識をもってなお、ゆずれないものを見据えること。
良識とゆずれないものは別々に考えること。


今回のTシャツ事件を例に解答しましょう。

「原爆は二度と起こしてはいけない惨禍だ」
「それを嘲笑し歓喜する人間は許せない」

と二段の論法をしっかりと構えることです。
当たり前のことです。しかし、場合によってはこうなるんです。

『原爆の悲劇を傷つけたから攻撃する』






時代は変わり世代は転換期を迎えています。
私はおそらく新しい世代の側です。両親も戦争は経験していません。

そんな私にとって、原爆のこと、その被害者のこと、
彼らの心痛を心から理解することはできません。

当事者の言葉や、それを題材として扱った作品や、記念施設を通じて、
教養として知り、それを"想像で補っている"世代です。

折に触れて原爆という我が国の悲劇を不埒に触れてくる韓国の国民性に怒りを覚えど、
それは完全に被爆者のためかといえば疑問が生じます。
原爆ドームで見た写真が脳裏に過ぎり、その悲しみを覚えただけでは決してありません。
だからこれは私自身に対する戒めでもあります。


原爆を口実として、宿敵を攻撃した。そんな感情はどこかにあるはずです。
そしてそれは韓国という国家が、国民を牽引してきたエネルギーとよく似ています。


悲しいことではありますが、いつか原爆のことも過去のものになります。
かつて虐殺の限りを尽くした暴君ネロですらいまや性的弱者の対象商品です。



かつて戦争を引き起こした新聞屋が同じように反戦気運を商品化しました。
韓国は国家がそれを主導していますが、日本の場合はそれがメディアです。
そしていずれは原爆など「民間人を狙った災禍」さえ商品トピックスにするかもしれない。だから今のうちに練習をしましょう。


「韓国に躾をする」
「侮蔑によって自尊心を満たす」

この二つを分けたとき、後者が悪識だと感じたときは理性によって切り離すこと。

「韓国に躾をする」
「たわけにはこう対応するのが当たり前」

としっかりと良識に置き換えること。多少の痛快さはユーモアとして味わうのも一興でしょう。でも度が過ぎてはいけません。

日韓合意などは良い例です。「合意」を後天的な「良識」、シーソーの中心軸として用意したのはいい判断でした。向こうが受け入れずとも、こちらの軸がぶれることはありません。だから政治の方は安心してください。いまのところはだいじょうぶです。問題は、政治になんて欠片も関係ないあなたたちです。



新しい日本の国民性の間隙に虚栄がふくれあがってきています。
隣の国を見てああはなりたくないと克己してください。彼らは慰安婦、徴用工、あらゆるすべてのものを口実に、なけなしの自尊心を維持する肥料に変えてきました。
私たちはそうではないはずです。









願わくは、「原爆の悲劇」なる良識を都合良く利用して、気持ちよくなるために
他人を叩くような国民にならないように。








それでも被爆者を捏造するような醜態はさらさないでしょうが。
そのあたりはさすがに日本の国民性を信頼しています。
それでも、社会心理学において、個人の行動を集団の総意に変換して考えるのは人間の基本思考です。韓国などに特化してしまって、そんな姿を他の人に見られるのは恥ですから。
……あるいは、そうしていれば、いつか韓国土着の虚栄から逃れた新しい世代と結びつくかもしれませんしね。
ないけど。イギリス方面見ればわかるでしょ?













最後に、冒頭にて引用した傑作から――その日本人訳者の言葉を借りようと思います。



アンドロイドとは、(中略)"現実"の世界(人間的な関わり合いと感じ方の世界)に接触できなくて、内側に閉じこもり、機械的な生活を送っている人間なのだ。
この新しい観点にたてば、(中略)ほとんど人間そっくりでありながら、人間社会にとっての潜伏的な脅威であることも、決して矛盾ではなくなる。
――フィリップKディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』浅倉久志訳 訳者あとがきより







2018年11月8日木曜日

八王子の中2いじめ自殺が、またいつもの「泣けるいじめコンテンツ」に変わっていくのを止めたい


大学二年生のころに塾のバイトである中学生を担当しました。
生徒の来歴をあらかじめ伝えられていた私が質問したのは

「いじめられてたの!?wwなんで!?www
 何されたの!?wwwwwwwwww」(当時の時代を反映した表現にしました)


無礼な私に彼女はパニックになることなく普通に答えてくれました。
私は好奇心の塊で、とにかく彼女の心理を知りたくてたまりませんでした。
なにせいじめることもいじめられることもなく育った人間なもので。
根掘り葉掘りいろんなことを聞き出して、「さすがにそれはやべーなwwww」と俺は楽んで聞き、彼女は苦笑混じりだったのを覚えています。

それから学習支援や進路相談を通じていじめ問題に触れたことは何度かありました。

それでもなお、あのころからずっと、
人間がその程度で破綻するものではないという感覚は変わっていません。






というわけで今回のトピックスはこれ!
痛ましい事件ですね。そして、典型的なだけに救いがたい。
せめてこれが史上初の報道なら報われるものもあるでしょう、
しかし事実として大河の一滴なわけです。

そして…以前に安田純平さんの記事で言及したように、
"売れる"カテゴリーとして報道が大々的に取り上げがちなニュース商品のひとつです。

さて次はスポーツです!と流されるやつです。

別に煽ってるわけじゃありませんよ。
報道に意義はありますが、それを肯定することとは別に、これが"売りに来ている"カテゴリーであるということは知らないといけません。
『いじめ』を使って売れる路線というものがあるんです。一例をtwitterのあるツイートで紹介しましょう。

この人はなんも悪くないですよ!?
ただ、これが売りたい路線なんです。マーケティングの王道です。
そして次の売り上げを拡大するための「浅い感動路線」
すなわち、反吐が出るような、「泣けるいじめコンテンツ」でもあります。
そうして、ここで生まれてくるのがこういった論調です。





これがヤバい。RT稼ぎではなく、これをマジで言わされてるからヤバいんです。
自殺した子を主役として、責任を与えるべき敵側を設定する方向性。
「何もしてくれないことは悪だ」と他人主体で考えること。

もちろん報道そのものの意義はあります。しかしやり方がマズい。

なぜかっていうと、どこにでもある弱い者イジメを
死んだ子を悲劇の主役に見立てていかにも義憤をかきたてる美しいドキュメンタリーに仕立てることで見えなくなってしまう視点がある。
口触りの言い弾劾の言葉では到達できない真実があるからです。


これがマズいもうひとつの理由は、 

たとえばこのように少年事件、あるいは学校という治外法権
のトラブルを扱うということは、真実が表に出てこないため、
何を言っても反論が来ないということなんです。
だからやりたいほうだい美辞麗句で飾ることができるってことなんですね。






ちなみに今回の報道を通して本当にわかることは、
① 自殺した子は転校後も学校に行かなかったこと
②「大会に出たり出なかったりしていた」こと
③「学校にいけない自分が嫌い」であること
④「だれもたすけてくれなかったな」ということ
の四つです。下の三つは動画の遺書で確認できる文言ですね。

④についてはハッキリ言い切ります。
まわりがたすけてくれないからこうなった。最後は他人の力に頼ったんです。
自分を責めさいなみつまはじきものにしたはずの"まわり"に。
この泣き言をどうとらえるかが今回の論点になります。

あとは、もともと立場のある子なら家族旅行に行ったところで省かれたりしません。
もとからうまくやれてはいなかった部分はあったはずです。
それでもなお"まわり"ばかり見ていたちぐはぐさがすべての元凶です。



え? もとより部活の拘束性がまちがっている……?
こんな自由が認められない環境はおかしいって……? お前りゅうちぇるか!?
ブルース・ウィリスの娘の爪の垢でも煎じて飲んでろ。
りゅうちぇるの件は、結局、世間の常識に対するバランス感覚の無さと、
そのくせ世間に歩み寄ってもらいたがってる押しつけがましさが問題なんですよ。
同じく夏休みの練習中に旅行に行くことも一般的な常識と比較してマイペースだと言わざるをえません。まあこれについては後々詳しく言及しますが。

ただ、部活のありかたは勝手に議論していてください。
大事なことではありません。

私が言及したいのは、『転校後の不登校』の件ですから。

だって、死んだのはいじめから逃れた後なんですから。(LINEの事は勿論後で言及しますよ)
そこで人生を巻き返せたはずなのにできなかったのはなぜなのか。
これは典型的でありながら、報道されるパターンとしては珍しいケースです。







さて、この記事の方針かつ結論ですが。
いじめを無くすことは100%できます。
外見的に生まれながらハンデを背負っている人だろうがなんだろうが。
しかし、個人レベルでのみというだけです。
学校や社会や組織でも、家庭でもなく、個人レベルです。


そしてブログの序文でいったように本ブログの運営方針は
時代遅れのブログだからこそできる
マーケティングの視点をかなぐり捨てる方針
にあるので、真っ向から正論をぶちまけていきたいと思います。


"転校後の不登校"ではなく"いじめ"にばかり注目する優しい加害荷担者たちと、動画からでさえわかる親の問題点をぶっ叩く路線なので、この"泣けないカテゴリー"を買うつもりがなければさっさとテレビやSNSやyoutubeに逃げてください。


"「いやぁ、うち夏休みは遊びにいきたいから、部活よりクラブの方がいいんだよね」
と自分の意見を言える子なら攻撃されたりなんかしませんでしたよ。"
↑ラストにはこんなこと言うような記事ですから。ね?













ともあれ、段階を踏んで説明しないといけないことなので、
ここにこうしてリストをつくってみました。



いじめを無くす視点を手に入れるために知るべきものリスト

① いじめられることには当然理由がある
② いじめられっこが可哀想な人とはかぎらない
③ いじめられる人はいじめられる人であり続ける
④ 他校でも不登校になった理由は優しい人たちのせい
⑤ 無知な善人に踊らされずに自分のための知恵を持て

この5ステップです。
それでははじめます。まずは一つめ。





① いじめられることには当然理由がある

これを説明しなきゃいけない時点でかなり詰んでます。

考えてもみてくださいよ。
だって……ゆづゆづですらいじめられていたのに?
フィギュアスケートの羽生弓弦さんのことです。
リアルシンジ君の降臨とかsyamuさんみたいなことを言う人たちが群がる
日本を代表するヒーローの一人ですね。
そんな人が理由もなくいじめられるわけないじゃないですか。


いじめられた人を見れば、ああこれはいじめられる人だなって
ちゃんとした経験を経てきた大人ならぜったいにわかります。

たとえばそれは愛着障害によるコミュニケーション障害ゆえかもしれないし、
自閉症スペクトラム障害による協調性の欠如かもしれない。
家庭環境の複雑なハーフゆえの劣等感からかもしれない。
当時人気絶頂だったアイドルがいじめの過去を吐露することが様式美であるように、
鼻につく上に世界観が違いすぎるからかもしれません。
ときに周囲に迎合できない哲学を持っている人かもしれない、ゆづゆづのように。
先輩に優しくされて良い気になったから同性から目をつけられたかもしれないですね?
いずれにせよ理由はあるんです。痛いと思われる理由は。

そして
理由をつきとめること=被害者の自己責任を追求するものだ
ということではありません。
他人は自分をうつす鏡なんですから、そこに被害者がいじめられた本質があります。
そこからおもちゃとして遊ばれることに発展するのは意味が違います。

そして、いじめられる人は、かならずどこかで一度はいじめられます。


だから、正確には100%いじめの再発防止はできるです。
しかしそれは一度目さえもいじめだと捉えないことでたどり着ける領域です。




② いじめられっこが可哀想な人とはかぎらない

そうやって人の愚かさばかり見る、キミの生き様に光明はあったかい?

仮にいじめの主犯格が複雑な家庭環境によって人格破綻を起こした人だったとしましょう。

でも、いじめというものは。
特定の集団社会の中で特定個人に攻撃を加えるということは。
その集団の中で自分の仲間がいたり立場があって安心感があるからできることなんですよ。
同じ集団の中に立場がないからいじめられる人はいじめられるんです。
だからやる側は、安心してそれを楽しみにすら変えられるんです。
会社の新人いびりとかってそういうことでしょ?

加害者の動機をいくら哀れんでも、権力者の方が強いんですよ。人格破綻者だろうとも。
反撃されないからいじめられるっていうのは、そういうことなんです。
腕力の弱さや身体的ハンデや、あるいは気弱な性格だからでさえないんです。

いじめる側に回ることのできる人間は、
その集団のルールを牽引する力を持った人間です。
部活の最上級生がそうであるように。そしてそれは"悪"ではありません。
そしていじめられない子は、「その場」のルールを守っているということです。


しかし、自殺した子の親は娘を『規則を絶対守る生真面目な子だ』と評価していました。
『大会に出たり出なかったりし』て『練習を旅行で休む』ような子に。
これは後々響いてくる重要な事実です。





③ いじめられる人はいじめられる人であり続ける

いじめは立場を持っている人によって行われます。
その場のルール・マナーを熟知し、
その場でチームワークを確立している人間が起こすものです。

それに合流できない人間がいじめられるんです。
足並みを外してしまったから省かれるんです。
失うもののない無敵の人が起こす通り魔とはちがう、
特定の集団のルールにしたがって行われるチームスポーツのようなものです。
あるいはボーンヘッドをかましたことによるベンチ裏のペナルティです。
法的に見て正しいかどうかではなく、必ずルールを違反した人間にそれはふりかかります。
あるいは成長して美人になりすぎて、仲良しグループの美醜のルールを破るかもしれません。しかもそれを鼻にかけるように見えたかもしれません。そういう広義の話です。


そして、新しい環境に逃げるということは、
新しい環境のルール・マナーを熟知し、
新しい環境のチームワークを確立している人間の中に飛び込むってことです。



ルールを破る人間は、その欠点をトレーニングで克服しなければまた戦犯になりかねません。
だから私はそのことも教えてあげずに「学校から逃げろ」とかいうやつは
完全にいじめられる側の奴の発想だなと思ってしまいます。

もちろん学校の卒業まで耐えたところでおんなじですよ。
その人はその人であるかぎり、仏教の教訓がそのように言っているように、
同じ試練と常にぶつかりつづけます。


そして、たとえ逃げなくても、
何もしなければ同じことが起きます。

いじめられるということは、ある意味で、
その場のルール・マナー、その場のチームワークと接点を持ち続ける事でもあります。
いじめられている人間はそのことを肌でしっかりとかんじとっているはずです。

いじめを辛抱強く受け入れていれば、いつか集団に癒着することができるしれない。
そんなふうに思って、何もしないまま、いつか集団の末席につけることを願って、
視野狭窄に陥ったまま、おもちゃにされる人もいます。

ゆづゆづはそんなところの末席につく必要がなかったから
自分の意志でスケートリンクの上にいます。


このように、いじめ報道の感動ドラマ路線によって
「いじめ=不運」「巻き込まれた子=悲劇の人間」
を意味しはじめてきた現代、その言葉にすがることはあまりに危険です。
いじめにはこうした共通不変のメカニズムがあることを見過ごします。







④ 他校でも不登校になった理由は優しい人たちのせい

ここからが本番です。

昨今、「いじめ」という社会問題に対する環境整備や、
現場への問題意識徹底、ソーシャルワーク人員の配置は着々と進んできました。
そうして今や彼らはいじめという問題に対するホットラインを快く開いてくれます。
対応事例も増え、「いじめ」に対する転校措置もスムーズに行われるようになりました。今回の事件でもそういった対応が行われたように。

しかしステップ3で語ったように、ただ場を移すだけでは何も変わらないんです。
本人が集団のルールに対してどう向き合うかが問題なのですから。


そして、いじめの社会問題にたずさわる人々は、ただの他人ではなく、プロの身内です。
はじめから救い手として親身に接してくれる、他人ならざる善人です。

プロの善人だからこそ彼らは被害者がいじめられた理由を口にしません。
あるいはそれを一緒に見つけようともしません、だって、その人が傷つくから。
彼らはプロの身内、いじめ被害者すべての理解者です。そして次の被害者が待っています。
けっしてその人が抱える問題そのものを指摘する職種ではない。

優しい人に手を引いてもらって幸せな世界を目指すということは、「自分のふるまいはどこかおかしかったのかもしれない」という自覚を捨てる危険性もはらんでいます。


そして、本当の自分と向き合うためには、無責任な他人と向き合う必要があります。
味方を通じては自分のことは見えません。いじめっこ自身さえそうじゃないですか。
他人こそが自分をうつす鏡ですから。




たとえば。
性犯罪被害者が警察に「そんなふしだらな格好して歩いてるからだよ」と言われます。
事実です。
あるいはそんな格好をしてなくても「夜中に若い子があんな所歩いてるからだよ」。
それも事実です。
彼女はそういうことで狙われたのは事実です。かりに『不運』の部類が大きい犯罪だったとしても、不満に思って唾棄することは違います。
それでも露出の多い服装をつらぬくならばスタンガンを忍び持つのもいい。歩く道を変えるのもいいし、送り迎えを頼むのもいい、夜中そんな道を歩くのがだめならフェラーリをかっとばすのもいい。
何もせず同じ道で同じ格好で同じ被害にあったら、それが二度目であれば、後悔するのは自分です。なぜ自分が責任を追わなければいけないのかと嘆き続けていた時間で、「男の腕力でやりかえされたときの方策」など重要案件を少しは掘り下げられるはずですから。

あるいは「警察が何もしてくれなかった」と泣き言を言うかもしれません。そこに救いはないのに。「学校が何もしてくれない」からしてくれるのを待つのは違います。



しかも、いじめは不運では起きません。
場のメカニズムによって発生する必然的事象です。
だからこそ、呻吟しながらちゃんと学習さえすれば次は避けられます。

ただし。
ここに一つの問題があります。

いじめのきっかけはどうあれ様々な口実によって攻撃が行われる場合もあります。
たとえば「臭くなくても『臭い』と言う」ような悪口のための悪口があります。

だからこそ、
いじめられた理由は本人には届きがたい。
これがいじめられる人がいじめられ続けるもうひとつの理由です。



それでも、理由を知れば「いじめられっこ」は戦う力を持つことができる。
しかし理由をしらなければ、「いじめられっこ」は戦うことさえできない。

これがどれほど怖いことか例えて説明します。



あなたは実家暮らしの小学生です。
朝起きて顔を洗ってトーストの匂いのするダイニングに行きました。
そうしたら席につくまえに親に殴られました。
朝食の味はせず、親の顔色をうかがってもずっと睨まれるだけ。
話しかけても返ってくるのはふだんの素行についての重箱をつつくような不平不満。
でも学校からかえってきた夕飯では殴られることなく、ほっとして就寝しました。
でも次の朝の食卓でまた殴られました。
次の朝も、また次の朝も。

それでもダイニングに続く扉を開け続けられますか?

でもそれを見ていた神様が「おはようって言わないからだよ」と
しっかりと正確に教えてくれたら?

あなたはすくなくとも選ぶことができます。
自分を反省し、ダイニングの扉を開けて大きな声で「おはよう」と叫ぶか。
それとも、
ヒステリーの親を見限って、玄関から飛び出すか。


ただしここにもう一つの問題点があります。
この二つの選択肢では解決しない本人の問題があったら。

あなたはけっして意思疎通の上手な子ではない。いやそれどころか、
発声に困難を抱えており「おはよう」という言葉さえ上手にできないことが
生まれてからずっと親に忸怩たる思いを抱かせてきたかもしれない。
近所付き合いの中でママ友仲間に嘲るように指摘され、
それが劣等感になったことがきっかけで、今回の理不尽な対応に及んだのかもしれない。
大声で上げた「おはよう」という奇怪な絶叫は家庭内暴力を発展させるかもしれない。

それでも、それが身近な世間と衝突するトリガーならば伝えてあげるべきなんです。
伝えてもらえなければ、永遠に世間の壁にぶつかり続ける異人として生きることになります。

もちろん現実に神様はいません。
だから、その子は家庭内における育児の限界点を超えて、
児童相談所を通じて新しい家庭へと移されることになりました。
新しい家族は事情を知っているし、定期的な所員の訪問も約束されている。
だけど本人には「なぜ捨てられたのか」の詳細はもちろん伝えられていない。
伝えられないまま、自分が何かとすれ違っているという実感を持ったまま来てしまった。

朝起きて、顔を洗って、ダイニングのドアノブに手をかけて。
実の親に殴られ捨てられたのがなぜかもわからないまま、
その気持ちさえわからなかったのに何も知らない他人の待つ新しい世間へと届くドアノブを。
心の強さ程度で回せるものではないんですよ。




だから、いじめられた人間の多数は他人との接点をもちがたくなります。
あるいはそれは不登校という形をもって。

自分がどんな人間かわからないから。
どうしていじめられたかわからないから。
でもなんとなくはわかっている、自分に原因はある。

それでも周りが、「あなたは悪くない」「あなた以外の他人が悪い」と優しい言葉をかけるから、わけがわからないまま、この世界には不条理があるんだという結果しか残らない。


理由もなく虐げられるような世界で生きていきたいと思いますか?




いじめの理由をどう伝えるかは難しいし、
それを知ることは「集団」に属する人間にしかわからないものです。
重要なのは、いじめた人間は無関係の人間には軽く打ち明ける傾向があるということ。
「あいつ、自分のカンニングを俺になすりつけるようなことを言ったんだ」とかね。
鍵は「部外者」であり、「集団に属していた人間」だと思います。

冒頭の動画で、
「学校に行けない自分がキラい」と自殺した子は言っていました。 
「めんどくさい子」という文面もありましたね。

つまり、それが仮に悲劇に酔いながら出てきた言葉だったとしても、
この子は自分の非通常性に気付きかけていたことはまちがいないなんです。

自分を客観視しかけていた子を今は感動ドラマの道具に仕立てられています。
「泣けるいじめドラマ」の主役として。


いずれにしろ冷静な部外者が本音をぶつけあわなければどうしようもない部分なんです。口をつぐんではいけない部分なんです。
だれもかれもが理解者を気取るのではなく、『他人』が必要とされています。







⑤ 無知な善人に踊らされず自分のための知恵を持て

いじめられる人は特別です。
ゆづゆづのように新しい集団を制圧するほどのカリスマ性と能力を持っているなら、正攻法の大逆転もあるでしょう。むろん無理ですね、平凡な特別な人には。

しかし、そうでなくとも、幸運な他人と出会って
自分がどういう人間なのかを知れたのであれば、対策がとれます。
そうして「特別な自分を知るからこそできること」が見えてきます。


選択することです。


もっとも理想的な選択は、
<足並みをそろえられるかぎりそろえるように努力しながら集団とつきあっていく>
ですね。それは自分の歩幅を知っていればできることです。
これでもう世間と衝突せずにうまくやれるなら幸運です。

あるいは
<自分を変えるために徹底努力する>
この例はラストに示そうと思います。



むずかしいのは、「今はそれはできないかもしれないな」と感じたとき。
「しばらくは自分なりの生き方でいくしかない」となったときです。

つまり、<主流をはずれることを覚悟する>となったときです。






"いじめは立場を持っている人によって行われる。
その場のルール・マナーを熟知し、
その場でチームワークを確立している人間が起こすものだ"と言いました。

同じように。

いじめの被害者がいじめられていても、学校に行かなくてはいけないのは、

"家庭のルール・マナーに従い、
家庭でチームワークを確立しているから"です。

いじめられっこは
家庭というチームワークの末席として
自分で自分をいじめるんです。

遺書にもありましたよね?
「お父さんは学校に行ってほしかったよね」って。




わかりますか?
最終的にいじめの被害者が真に戦う相手は
家庭を優先して自分を迫害する自分です。
そして主流を外れるとき、その主流を決定していた
家庭の方針と戦わなければいけないときがくるということです。


しかし、そこにこそ希望はあります。
そこに打ち勝ちさえすれば、いじめは発生しません。

そしてそれと戦う方法は、
自分がいじめられた理由をしっかりと知り、それにどこまで折り合いをつけて、
最後には家族の方針とどう戦うかってことなんです。
自殺は迫害の延長です。自分の頭で考えることをやめたから転校してもなお死を選んだんです。

部活のルールにてんで歩み寄れなかった娘さんを親御さんは
「生真面目に規則を守る子」
と評していました。それは家庭の集団のルールを守っていたという意味でしょう。
そして辛いそぶりを見せないという形で対話を放棄した。
だから自殺しました。 




今回の報道でわかりきっているいじめの原因がもう一つあります。
親ですよ。
練習を休ませて旅行に連れて行ったのは親です。


この件で、経験則的に見えるものがあります。
親はもちろん生計をたてられる大人だから自分勝手を自力でカバーできる。
ただ、それに子どもを巻き込むことはバランス感覚が欠如していることに間違いないんです。

スーパーの行列を都合良く離れて、あとから戻ってきて『入れてよ』なんて、
よほどの立場がないとできないことを平気でやってるんです。
極端な話じゃない。りゅうちぇるみたいな甘えはやめろ。

すくなくともこういった態度を日頃からとる親のもとで育ったのなら、
とらざるをえない生活をさせられていたのなら、
自殺した子もバランス感覚が欠如していた可能性は多いにあります。
そしておそらくこれは間違っていません。

大会に出たり出なかったりして、部活で立場を持つことは絶対に無理です。
どうしてそこにいるんだという異物であることに普通は気付きます。

自分の都合でふるまって、都合が悪くなれば周囲に足並みそろえてほしい。
そういう他者への無意識な過剰期待と常習依存の傾向があったのかもいれない。
親が周囲と連携するバランス能力が高くないことは、間違いのなかったはずでしょう。
そんな親を見ていたのなら、子どももそうである可能性は高いのです。

あるいは見方を変えるべきかもしれない。

「周りが助けてくれなかった」という遺書に見る他者依存も
「ちゃんと私たちの相談を重く受け止めてくれて対処してくれたらよかった」
という責任の見いだし方も、
「深く悩んで1人で抱え込んでいたと言ってくれなかったのか」と一つ屋根の下で不登校であったはずの娘への感想を実の親が述べたことも、
いじめ問題の解決にのりだしていた学校の両者和解の提案を打ち切ったことも、
縁を切って転校したはずの学校に責任追及の一報を叩き込んだことさえも。

たとえば旅行の時、部活を休もうというときになったとき、 
あるいは、親と子どもは学校の件について話しあわなかったんでしょうか?
それとも、話し合ってそれでいいやというのが親子の結論だった?
いままでも出たり出なかったりしていたから、それが当たり前の家庭だったから?
家庭の外のことは無視することが当たり前だったのか?


親に悩みを打ち明けない、そんなそぶりも見せなかったと言うくらいに対話しなかったのは、親を傷つけたくなかったからなのか、それとも、言葉にできなかったのか、あるいは、言っても無駄だと思ったのか、そこまではまったく予想はできません。バランス感覚の変な家庭ですから、娘さんがどこまでそれを自覚できていたのかは不明です。


結局、わざわざ方針にあわない集団のなかで
我が儘をつらぬいたこと、つらぬき続けていたことは事実です。


でもこれ自体の真偽はいいんです。
この仮定を理由に話をすすめるつもりもありませんから。
仮に親に問題があろうがなかろうが、出る結論は何も変わりません。






たとえば、自殺した子は、
いじめられて不登校だけど塾に通って受験するような子がいること
は知っていたんでしょうか。
そうしてその子が立派に大学に通っていることも…

学校には行きたいといっていましたが、
学校に行かなくていい道とくらべてどうだったんでしょうか?
今となってはわかりません。

塾通いの子は「今はそういう生き方しかできない」と覚悟した上でやっていました。

ひとりよがりで楽できる方に逃げて逃げつづけて、その先に運良く優しい人がいたら、
その人に依存する。そんなことをくりかえしているのではメンヘラと同じです。

しかし、さまざまな知識をもって世間を知り、進路を見比べれば、
いつか自分なりの進路があるということも見えてくるはずなんです。
選択するというのはそういうことです。
「自分を変えない」まして「変えられない」のなら
知恵をつけなければ他人に迷惑をかけるだけです。


……

そりゃ大半の親は井戸端会議で当たり前のように
経歴をのべられるような子が欲しいに決まってます。
それを快く受け入れていれば、親をがっかりさせることはない。

でも、そんなふうに思って、何もしないまま、ずっと末席についていられることを願って、視野狭窄に陥ったまま、理想の子どものままでいられるかどうか。
それができるかどうかはその子ども次第です。

子ども自身ができないと感じたら、
たったひとりで親とさえ戦いをはじめるべきなんです。
そのために知恵をつけるべきなんです、自分をいじめる前に。

頭が悪いからいじめられるという言い方はあまりにも残酷ですが、
頭が悪いままでは自分をいじめることしかできなくなる
人間がいるのも事実です。視野を広げる必要があります。
他人には自分の感性は奇怪すぎて伝わらないかもしれないから。

規則を絶対守る子がいた、実際にそれが今回死んだ子です。
もしもその規則が間違っていたら自分で判断するしかないんですよ?
世間と乖離するその規則は、社会全体という集団のルールを破る可能性さえある。


私は、自殺した子が、転校後でさえも、
LINEの通知を確認し続けていたことも気になります。
ステータスメッセージに悪口を書かれてそれを見て落ち込んだってことは、
友達一覧に自分をいじめた子たちを残し続けていたってことですか?
いくらなんでも集団への接し方が不自然過ぎる。

それに、親に向けた遺書ではじめて部活が理由だったと述べられたということは、それなら今まではなぜいじめられたのかだれもわからなかったということですよね?

問題解決に学校が動いて、当事者が謝罪して、転校して、本人はその間もずーーーっと黙っていた。
それをして「 だれもたすけてくれなかったな。」 という思いを抱えながら。
まさか、何も言わないで気持ちを察してくれると思っていた?
学校が怖い怖いといじめられた理由と向きあうことなく怯えたまま、不登校を理解して欲しい理解して欲しいと居もしないもしないだれかに願いを託しながら。

これほど他人任せな思考停止に私は「悲しい」という感情を持つことはできません。




ああ、ちなみに身体をデカくしたり武術をならってもたぶん無駄です。
孤独なままでは「補導」や「退学」といった、社会集団からの逸脱まで覚悟しなければ発揮されませんから。
むしろ道を外すどころか、それでも「何も変わらなかった」かもしれません。相手によっては殴り合うことで集団の一員に認められるかもしれませんが。
しかしやはり知恵こそが確実な武器です。

学校にうまく通えそうにないなら、保健室の遅刻と早退をくりかえすようなスタイルでもいい。おかしな生活でも、自分の性格さえ見定めていれば耐えられます。
自分に合った生き方とは、どこかの集団に肩代わりしてもらうことではなく、自分の案配で適したグループに近づいたり離れたりをくりかえし続けるということなんです。
そのバランス感覚を養えなければその人はいつかまた排除されます。
知恵さえあればその正しい指南役を見つけることだってできます。


追い詰められた子どもにはそんなこと無理?
いじめポルノにわめいてるだけのお前が何してくれんだよ。自分でなんとかすんだよ。





……もちろん
自分なりの生き方をいつまでも他人から許してもらえると思ってる
甘えたやつはまたいつかかならずいじめられますけどね。

世間と自分の距離感を知れ。ってことです。

また集団に合流するとき、
自分を律せるような年相応の知恵を得られていなければ…
ただの年をくっただけのおおきなこどものできあがりです。
社会人の自殺が報道されない理由はそれもありますよ、もちろんね。


自分の世間とのバランスを認識していれば、適した集団を選ぶことができる。
虚弱体質の肥満老人がスポーツインストラクターを志すのは自己認識が甘いのは当然。

同じように……まさかこんなことになるなんて思っていなかったにしろ、親のバランス感覚をつらぬくならば部活より休みの都合が付く民間のクラブが一番合っていたのは本当なのですから。


「いやぁ、うち夏休みは遊びにいきたいから、部活よりクラブの方がいいんだよね」
と自分の意見を言える子なら攻撃されたりなんかしませんでしたよ。






最後に。
第三者ができることは、
「泣けるいじめ」を消費するだけではなく、
いじめられる理由を冷静にケーススタディしてあげることです。
そして、関係者たちが事後に授けられる知恵をもっとつけること。

不運=いじめなのだとすれば、その原因と理由をはっきりさせたとき、
いじめはその人の人生のテーマにすがたかたちを変えることができるはずです。






かっこいい……。













[閑話]
いじめられた子の逃げ場を作ろうってことに関してホームスクールのような制度が日本にあればなって思ってる人はいると思います。それ、実は日本では通信教育の制度をうまく使えば擬似的に実行できるんですよ。そういうシステムつくってみたいですねぇ。 

[閑話2]
私は前の「児童書」の記事で言及したようになにかとキッズとの接点の多い人生です。
野獣先輩のアイコンを使って深夜までLINEをするような子たちの実態は
言われるまでもなくわかっています。そこで罵詈雑言が飛び交っていることさえも。
ぶっちゃけそれを見て私も爆笑してますけどね。
それで一言いえることがあれば、LINEは集団生活の延長に過ぎないので、
そこに原因はなにひとつありませんよ。

2018年11月2日金曜日

安田純平をめぐる報道は、"新時代の24時間テレビ"だ!

【ノーカット】安田純平氏 記者会見

https://www.youtube.com/watch?v=vRlHQPCpJk0


はい、今回のトピックスはこれ。みなさんはもう見ましたか?
時間を無駄にしましたね。

見ていない人にあらすじだけお伝えすると、
安田さんが多くの個人的な解釈と、お部屋の扇風機の強さについてとかを一生懸命お喋りして、
あとは、台本を見ながら質疑応答イベントを消化したという内容です。
つまり、ひとりよがりの感想戦やってるだけなので、ニュースとして捉える事実は
なにひとつとしてありませんでした。

ジャーナリストは記事を書くのがお仕事のはずなんですけど、
この人が幾度にもわたる人質生活を通して世間に伝えたものが

お散歩からはじまる
ゆるふわ人質生活コメディ

ってさすがにコントとして上出来過ぎませんか。
きららでやれ。
と思いました。

言うまでもなく中東で誘拐はビジネスです。
そういえば映画化もされたクィネルの『燃える男』を近ごろ読んだんですが
誘拐ビジネスが横行するメキシコを舞台とした物語なので個人的にタイムリーでした。


そういった勢力との結託や狂言誘拐だという人もいるんですが、
記者会見で「誘拐犯に説教してやったった!!」とか虚勢張ってるあたり、
学習能力のないおバカさんが生き餌として利用され続けているだけな気もします。
誘拐ビジネスにもカモリストはありますから。
調べてから誘拐するんですよ、ちゃんとね。



で、とりあえず自己責任論。


私は"助けてあげてもいい"と思います。
流れた金が新しい犯行にもちいられる武器の調達金に変わるだとか
そういった流通の視点は置いておいて。


いずれにしろ、この人が伝えられるものが
きららの新連載作アイデア出しだけなので
ジャーナリストには程遠いわけです。プリキュアになりたい園児と同じです。
プリキュアごっこしてたら本当の犯罪者と出会っちゃったみたいなそんなお話しです。

印象でしかモノを語れない。
なにひとつ現地から、あるいは物証をもって物事を伝えられない。
なにより学習しない。
妄想でモノを語ってあとから「個人的解釈ですけど」とか言う人。

こんな人の記事に読む価値あると思います?
だってただの感想文しか書けない人じゃないですか。

つまり、もののわからない一般市民。
だから、かわいそうだから助けてあげてもいいんじゃないですか?
社会的支援が必要な人って記者会見を見ればわかるじゃないですか。かわいそう。
責任能力なんて…あると思います? 授業中教室から飛び出しがちなアレな子に教育を受ける義務を解くとかまともな市民のする仕打ちじゃないでしょ? それと同じですよ。



そうだ、あの人だと思ってください。
自称「youtuber」「作曲家」「小説家」にして、
どれひとつ張り子の虎でしかなく、しかしてその実態は
奇行力の化身
のびハザの人気を自分の人気と勘違いした男
のびハザとともに生き、のびハザとともに死んだ男
≪オフ会0人≫自称大物youtuber syamu_game











そして、新たに生まれたフォロワーこと
奇行をジャーナリズムと勘違いした男
誘拐ビジネスとともに生き、誘拐ビジネスとともに死んだ男
新たなる奇行力の化身
≪身代金支払者0人≫自称ジャーナリス├ 安田純平









ほら、ちょっとは同情の気持ちが生まれてきたでしょう?
安田さんに対する倫理的な憐れみの情が出てきて、
敵愾心が薄れてきたんじゃないでしょうか。




結局、このコメディじみた不思議なお話の裏になにがあるかはともかく、
今わたしたちに伝えられていることは、

頭の弱いおじさんが徘徊して、
ちょい悪なおじさんたちに保護されることになってしまった。
世話料を請求するも払われず、それでも情が生まれて見捨てられなくなった。
そんな利害と愛情と宗旨が交錯するおっさんずラブなストーリーだけです。

もう腐女子が処理してよ、この案件。見ているだけで尊いでしょ? 身代金くらい安いでしょ。
ジュンケンかケンジュンか、どっちがメジャーカプかは知りませんが。






さてさて、長くなりましたがここからが本題。

なんで今さら自己責任論が大ニュースになってんの?

ということですよ。

結論から先に言うと、これらの報道は「新時代の24時間テレビ」ってことです。




今回、純平の解放とともに突然持ち上がった「自己責任論」。

バッシングする人もいれば、
ジャーナリズムの重要性を説いたり、
オランダの例を上げたたりして擁護する人もいましたね。

まぁ擁護するのはたいがい同業者で、
ジャーナリスト同士で傷をなめ合うのは当たり前のこと。
デザイナー特有の横社会の馴れ合いが五輪エンブレム事件を生んだように、
世間の価値観と乖離しているのでそのあたりの手前味噌は聞き流しましょう。
好きなことややる気の出ることだけを飯の種にしていきたいのは誰だって同じですから。
そうして適応障害を起こした成れの果てにでてくる言葉が「自分たちのしていることには価値がある」という類のものなんですから。使命感があるなら泣き言ほざくな。
そりゃかつて見過ごされてきたポルポト政権下の現実だの
サブラー・シャティーラ事件くらいのことなら世論に伝えるべきでしょうが
間抜けなディティールを知れたことはともかく、今回の件みんな知ってることだけじゃないですか。
ジャーナリズムを名乗るだけなら成果無しの30代ニートにもできます。



……というか。それ以前に。


この話題が持ち上がる前に、とっくにこの件は決着がついていたはずでした。
すくなくとも、一般的な市民感覚としては。

幾度にもわたる無謀な渡航と、政府の勧告や支援を反故にしたという経緯を経て、
この件は
一般的なジャーナリストの誘拐事件から、
安田純平氏という特殊な個人のケース
としてとらえられていたはずなんです。

つまり、もう一般論をとっくに超えている議題なわけです。

国家は国民を保護するべきもの
ジャーナリズムの意義は守ってあげるべきもの

という一般論はすでに語り済まされた事件だったわけですよ。

トラブルが大目に見られるのはなんだっていつだって初回にかぎります。
実際の犯罪においても、初犯は酌量されるように。
トラブルというものは、その二度目から、反省の能力の有無が問われるわけです。
それが人間社会の原理原則であって、何度も何度ものほほんと誘拐される
彼はその当たり前の原理原則において、当然の末路という烙印を押されていました。

そんなごくごく一般的な認識によってもはや見向きもされるはずもなかった
論点がとつぜん復活したのは不自然ですよね。

「一般的な市民・ジャーナリストに対する国の対応について」が今の論点ですが、
まず一般的な市民、あるいは無垢な子どもなどはこの世に存在しません。
みんな名前があり、バックボーンがあります。それが塗り潰されるとき、すなわち、
わざわざこれをお題目に掲げるとき、媒体の印象操作がかならず存在しているわけです。



で、冒頭の動画で、質疑応答の最初の質問者の言葉をよく聞いてください。
これが、帰国後の順平ニュースを主導する人々のやりたいことです。

「国の責任を問う」というバイアスをかけて
このトピックスを扱いたい人たちが、『自己責任論』を復活させた張本人です。

さて、右と左のどっちが正しいかなんてクソどうでもいいです。

ときに私の父親は本件の主導者たちの中の人です。
思考停止のできない人なので、仕事をしながらも個人的な考えはわける人です。
そして私自身も今はあるテレビメディアとお仕事させてもらっています。

その来歴の上でわかるメディアの実態は、
メディアとは購買層を常に意識する仕事だということです。
報道さえもお得意さまに向けてパッケージングされた商品だということです。

そう、テレビや新聞にも購買層がいるんです。
ゴールデンタイムの専業主婦にダイエット特集をお送りするみたいにね。

そして今回の主導者たちは、あるターゲットに売り込む好機だと思ったんです。
なぜなら

「国の責任を問えば」、自分たちのメディアを買ってくれる人たちがいるから。
ルアーに飛びつくバスのように食いついてくれる人たちがいるとわかっているから。

それを求めている人たちがいるから、強引にでも需要を生み出そうと思った。
そうして客寄せパンダとして純平が選ばれたんです。

しかしどうやら順平は彼らの意図には完全に乗ってくれませんでした。
質疑応答の返答を見ればわかりますが、きっと苦虫を噛み潰したと思いますよ。
取れ高がとれなかったわけですから。

バス釣り専門誌だって常に穴場を探しているように、彼らも紹介できる穴場を探してもがいてるんです。
頭のおかしいおじさんを使ったビジネスチャンスを逃すわけにはいかないので。
だから、こんなくだらないおじさんの奇行さえニュースにしたてる必要がある。

右も左も新興宗教も大手宗教も、思想は人が生きるためには必要なものです。
その思想性に良いも悪いもないけれど、激突することは山ほどある。
そこに人は群がる。
まとめサイトが対立を煽って需要を生むみたいに。

あるいは『24時間テレビ』と『バリバラ』が互いに需要を生み合ってるみたいに。
彼らは現代のくぐつ一座です。互いにしめしめと思ってやってますよ。
どちらが良いも悪いもありません。
前者は社会的な義務を題目に唯一無二のお祭りを披露しているし、
後者だって前者のやり口に苛立つお利口さん達の憤懣の受け皿になっている。

さて、こうして今回、
哀れな男をピエロとして24時間テレビのメソッドが始動しました。

次はどこがピエロを立ててフォロー・アンチ・カウンターをやりはじめるか楽しみにしましょう。

日本中のメディアが合作するリアリティーショーの始まりです。










[閑話]
第一線で活躍できなくなった人は、とたんに世間にモノを言い始めます。
むかしの杵柄で一言居士としてある程度注目されるから、
失った立場の寂しさや切なさを満たすことができるわけですね。

ダウンタウンの松本さんとか、堀江元社長とか……あと…ダルビッシュとか…